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プロ野球1980年代の名選手

辻発彦 “死に方”を常に考えていた西武黄金時代のキーパーソン/プロ野球1980年代の名選手

 

1980年代。巨人戦テレビ中継が歴代最高を叩き出し、ライバルの阪神はフィーバーに沸き、一方のパ・リーグも西武を中心に新たな時代へと突入しつつあった。時代も昭和から平成へ。激動の時代でもあったが、底抜けに明るい時代でもあった。そんな華やかな10年間に活躍した名選手たちを振り返っていく。

「チームが勝つのが一番うれしいんです」


西武・辻発彦


 2018年、10年ぶりにパ・リーグの頂点に立った西武。10年ごとのメモリアルイヤーには必ず優勝してきた西武だが、1980年代から90年代にかけての西武では、節目の年も単なる通過点。優勝を逃すほうが珍しいほどの黄金時代だった。その黄金時代のキーパーソンともいえる存在だった辻発彦。監督として優勝に導いた18年、黄金時代の選手だった自らを、こう振り返っている。

「自分の“死に方”というのは常に考えていました。それが自己犠牲だとは思っていない」

 自らがアウトになっても、それで走者が進塁すれば、得点の可能性が高くなる。

「チームが勝つのが一番うれしいんです」

 こうも続けた。

「いまも、目に見えない勝利への貢献度という視点で選手を見ています。あのヒットもいいけど、この四球の価値が高いとか。自分がそうだったから。サヨナラヒットを打ちました、といっても、そこまでのお膳立てを周りがしてくれたんでしょう、って」

 チームプレーに徹し続けた男だった。ドラフト2位で84年に西武へ。社会人時代に都市対抗で1度だけしか守ったことがなかった二塁に挑戦して、翌85年には引退した山崎裕之の後釜に座った。攻守の師匠は、そのオフに退任した広岡達朗監督。打撃は「ベース寄りに立ち、バットを短く持って球を引き付けてひっぱたけ」と言われ、その打撃は引退まで続け、結果、右打ちが増える。守備は山崎の二塁守備も必死で観察。現役時代は巨人の名遊撃手だった広岡監督から言われたのは、

「グラウンドにボールをポンと置かれて、『この(静止した)ボールを捕ってみろ』くらいです。足を使って流れるように捕るんだよ、と自分なりに解釈しました」

 森祇晶監督が就任した86年に初のベストナイン、ゴールデン・グラブ。88年からは7年連続でゴールデン・グラブに選ばれた。

「ファインプレーは派手だが、投手は普通に捕ったほうが『ああ、打ち取ったんだ』となって、ピッチングにもいい影響が出る。フットワークに自信があったので、浅く守って、投手が打ち取ったボテボテの当たりは必ずアウトにするように心掛けた」

 攻守走に職人肌。オープン戦の死球禍で右手人さし指を骨折して出遅れた87年だったが、巨人との日本シリーズ第6戦(西武)で、その真価を発揮する。

「ファンブルか送球が逸れたのかと思ったが、伊原(春樹)さんの様子が普通ではないと思い、目を切ることなく走った」

 8回裏二死から一塁に出ると、続く秋山幸二が中前打。クロマティの緩慢な守備を読んで三塁へ進み、伊原コーチが腕を回しているのを見るや否や、一気に本塁を陥れた。 森監督も「5点にも匹敵する貴重な1点」と語っている。試合の勝利だけでなく、日本一をも決定づけた快走だった。

「僕はずっと、自分を追い込んできた」


 93年には打率.319で首位打者に輝いたが、やや失速した95年オフに戦力外となり、コーチ就任を打診される。だが、現役にこだわって自由契約にしてもらうと、解説者となっていた森が紹介したのが、野村克也監督の率いるヤクルトだった。そのあとにロッテのGMとなっていた広岡からも誘われたが、

「セ・リーグの野球を経験したい」

 とヤクルトへ。移籍1年目に自己最高、リーグ2位の打率.333をマークした。

「西武をクビになった意地もあった。このまま終わってたまるか、と思ってね」

 99年限りで現役引退。182センチと二塁手としては長身だったが、その体は満身創痍。名バイプレーヤーにトドメを刺したのは、試合中のケガではなく、キャンプの特守でギリギリの打球に飛びついたときのものだった。

「僕は16年間ずっと、そうやって自分を追い込んできた。その結果ですから、しょうがないと思っています」

 黄金時代のキーパーソンが、司令官として黄金時代の復活に向かって牙を研ぐ。

写真=BBM
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