1980年代。巨人戦テレビ中継が歴代最高を叩き出し、ライバルの阪神はフィーバーに沸き、一方のパ・リーグも西武を中心に新たな時代へと突入しつつあった。時代も昭和から平成へ。激動の時代でもあったが、底抜けに明るい時代でもあった。そんな華やかな10年間に活躍した名選手たちを振り返っていく。 86年に無冠ながらMVPに
「投手は東尾(修)さん、野手は僕が中心で、よく連れ立って飲みに行きましたね。『今日は野球を忘れて女の子と話しに行こうや』とか言いながら、いつの間にか女の子をほったらかして野球の話をしている(笑)。森さん時代は、僕がミーティングで檄を飛ばすこともありました。『あれが効きました』と言ってくれる後輩もいるんだけど、そんなに大したことは言ってないはず(笑)。僕は野球に対してマジメだったし、グラウンドで背中を見せてきたから、石毛さんに言われたら仕方ない、となったのかもしれないですね」
大ベテランたちがズラリと並んだ西武へ入団して1981年の新人王に輝き、80年代の後半には早くもチームリーダーへと成長を遂げた石毛宏典。
森祇晶監督1年目の86年は、
「監督が代わったから優勝できなかった、とは言われたくない」
と燃えて、6月と8月に月間MVP、最終的にはパ・リーグ記録に並ぶ先頭打者本塁打8本を含む自己最多の27本塁打に89打点、自己最高の打率.329。リーグ連覇を果たした西武は日本一の座も奪い返し、無冠ながらMVPに選ばれる。森監督も「石毛を中心に、いいチームになってきた」と目を細めた。
ただ、
広島との日本シリーズで左ヒザじん帯を痛め、その後は遊撃から三塁へ。
「まだショートもできたと思うけど、森さんの中に、秋山(幸二)の打力を生かすためにサードから外野へ行かせて、田辺(徳雄)が伸びてきたんでショートをやらせ、僕には秋山の代わりにサードをさせたい、というのがあったんですね。それで、僕には『秋山が打撃を生かすために外野へ行きたいと言っている。サードをどうしようか』って言うから、『じゃあ、俺が行きますよ』って。あとで聞いたら、秋山には『石毛が、ヒザが痛いからサードやりたい、って言ってるんだ』と言ってたらしい。森さんは、そういうの、うまいよね(笑)」
以降3年連続で全試合に出場し、三塁手として2年連続ゴールデン・グラブ。90年のシーズン守備率.991は三塁手としてのパ・リーグ記録だ。91年からも3年連続でゴールデン・グラブを受賞している。
「ゲーム全体を見ることができるショートのほうがおもしろかった」
と言うが、遊撃であれ三塁であれ、送球の正確さと肩の強さには絶対の自信があった。
チームの勝利がすべて
「なんでもできた分、相手の投手にとっては嫌な打者だったと思います」
守備位置の転向を難なくこなす器用さだけではなかった。80年代は180センチ台の身長で盗塁を重ねた選手は少なく、また抜群の俊足というわけでもなかったにもかかわらず、80年代すべてで2ケタを記録。
「勘が良かったんで、それほど研究しなくても、けん制のクセを見抜くのはうまかった」
卓越した万能ぶりが最大限に発揮されたのは、やはり打撃だろう。通算236本塁打を放ちながら、通算243盗塁、218犠打。通算200犠打を超えた打者のうち、本塁打の数は
中日の
高木守道と並ぶ歴代トップだ。
94年オフに森監督が退任すると、堤義明オーナー直々に監督就任を打診される。兼任監督を希望したが、監督に専念することを求められ、“オヤジ”
根本陸夫監督の率いるダイエーへFA移籍して、現役を続行。
「どう生きてきたかより、これからどう生きるかが大事」
と決断の理由を語ったが、通算1833安打を残して、96年限りで現役を引退した。
「西武だけで1800本を超えていた。名球会の2000本なんて、すぐかな、と思っていたけど、使ってもらえませんでした(笑)」
中心選手でありながら自己犠牲をいとわず、チームの勝利がすべて。個人記録に興味なし、こだわりもなし。最後まで打撃タイトルはなかったことからも、逆説的ではあるが、そのすごさが分かる。もし西武で“石毛監督”が実現していたら、どうなっていただろうか。
写真=BBM