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プロ野球1980年代の名選手

山森雅文 ワンプレーで米殿堂入りを果たした名外野手/プロ野球1980年代の名選手

 

1980年代。巨人戦テレビ中継が歴代最高を叩き出し、ライバルの阪神はフィーバーに沸き、一方のパ・リーグも西武を中心に新たな時代へと突入しつつあった。時代も昭和から平成へ。激動の時代でもあったが、底抜けに明るい時代でもあった。そんな華やかな10年間に活躍した名選手たちを振り返っていく。

先制ソロを左飛に


阪急・山森雅文


 1981年9月16日、西宮球場。左翼の守備には、阪急の山森雅文が就いていた。ロッテ戦の1回表。一死から、山田久志の1ボール1ストライクからの3球目を、二番の弘田澄男が強振、打球は左翼のラッキーゾーンへと吸い込まれ、先制ソロとなろうとしていた。

 だが、飛球を追う左翼手の頭には、山田と弘田の対戦データが叩き込まれていた。ストレートとシンカーはライト方向、それ以外の変化球はレフト方向。準備は整っていた。もちろん、本拠地でもある西宮球場のフェンスまでの距離も頭に入っている。打球を捕るため、そして不要なケガをしないために、定位置から何歩の位置にフェンスがあるのか。距離感は体に染みついていた。

 右翼から左翼へ風が吹くことの多い西宮球場だったが、このときは左翼から右翼へと弱い風が吹いていた。これによって、打球は少し戻される。残された可能性を追い求めるように、腰を低くしたまま、打球を追い続ける。定位置から8、9歩。西宮球場のファンスは金網だ。スパイク裏のゴムが、ちょうど引っかかる。1歩目で真ん中の太い部分に足をかけると、2歩目でフェンス最上部に到達した。打球はスタンドではなく、ラッキーゾーンへ差し出した、愛用の少し大きめのグラブに吸い込まれる。先制のソロ本塁打は、単なる左飛に終わった。

 このワンプレーは、フェンスを駆け上がって本塁打を左飛にしただけにとどまらなかった。2年後の83年、MLBコミッショナー事務局からベストファインプレー賞として表彰され、野球殿堂入り。日本人の“米殿堂入り第1号”へと駆け上がるプレーでもあった。

 阪急黄金時代からオリックスにかけて、鉄壁の外野陣はチームの看板。そんなチームに入団して、2年目の80年に一軍初出場を果たす。“福本豊2世”と期待され、その福本からもかわいがられた。守備練習では「俺の後ろにいて、俺についてスタートを切れ」、ベンチでも「体が開かないバッターは引っ張ってくる強い打球が多い」など、その技術を伝えられていく。

 ただ、その福本がいたことで、レギュラーの座が遠かったのも確かだ。80年代の外野には簑田浩二もいた。前述のファインプレーがあった81年には初めて出場100試合を突破したが、わずか62打席と、守備固めや代走がメーン。限られた役割ではあったが、守備は研ぎ澄まされていった。

シーズン126打席でゴールデン・グラブ


 打球に飛び込んだり、スライディングしたりするのはケガのリスクがあるため、ゴロもフライも、足を使うのを基本とした。打球を追う際は、腰高になるとミスが出やすくなるため、できるだけ上下動せず、最後まで腰を低く。盗塁と同様、スタート時に気を配った。

 さらに耳も使って、甲高い打球音は引っ張った打球、鈍い音だと詰まるかバットの先に当たったゴロなど、練習でも勘を養うことを心がける。打者のデータをたくわえ、打球方向を予測して打つ前にスタートを切ることもあった。打球も少し上がった時点で落下地点が予測できるようになり、そこへ目を切って走ることで、守備範囲も広がっていった。

 守備の名手というと、打撃はコツコツ当てるタイプが多い印象だが、むしろ逆。技巧派よりも速球派を好むプルヒッターで、意外性のある長打も魅力だった。85年6月16日のロッテ戦(松江)ではサヨナラ満塁本塁打。通算12号にして、シーズン2本目、通算3本目のグランドスラムでもあった。さらに、86年は32安打ながら、2ケタ10本塁打を放って、シーズン126打席にもかかわらずゴールデン・グラブに選ばれている。

 だからといって小技が苦手ということでもない。阪急ラストイヤーの88年に20犠打をマークするなど、打撃でもイメージどおりの職人肌を発揮している。

 チームがオリックスとなっていた94年限りで16年の現役生活を終えたが、規定打席到達なし、ゴールデン・グラブ1度、米殿堂入り。この3つをコンプリートするのは、もしかすると三冠王より難しいかもしれない。

写真=BBM
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