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平成助っ人賛歌

ビル・ガリクソン なぜメジャー20勝投手はわずか2年で日本球界を去ったのか?/平成助っ人賛歌【プロ野球死亡遊戯】

 

江川卓の代役としての期待


平成元年、4月9日のヤクルト戦(東京ドーム)の試合前に原辰徳(右)と写真に納まったガリクソン


 もうじき平成が終わり、令和が始まる。

 そうなるとふと気になったのが、約30年前に昭和が終わり、平成が始まるころのプロ野球界はどんな選手が注目されていたのだろうか? ということだ。2月にファミコンソフト『ドラゴンクエストIII そして伝説へ…』が発売され、3月に東京ドームが開場した1988年(昭和63年)春の『週刊ベースボール』を確認してみると、ひとりの投手を集中的に取り上げている。巨人の新外国人、ビル・ガリクソンである。

 なにせ、その実績がずば抜けていた。全米2位でエクスポズからドラフト1位指名。79年に大リーグ・デビューをして以来、レッズ、ヤンキースと渡り歩き、9年間で通算101勝86敗。なんと来日前年まで6年連続12勝以上を記録。身長190センチ、体重100キロの大型右腕はメジャー・リーグの年俸調停委員会の交渉期限が切れると、まさかの日本球界行きを決断する。2年契約、総額330万ドル(約4億2900万円)の当時としては破格の好条件で巨人入りが発表された(日本人選手の最高年俸は落合博満の1億3000万円)。しかも、まだ29歳の若さである。当然、20勝を期待され背番号は20。前年に日本球界を沸かせたボブ・ホーナー(ヤクルト)以上の大物と話題を集め、引退した江川卓の代役を務められる新エースとしてチームに迎え入れられた。

 早速、週べ2月1日号では表紙を飾り、「ベールを脱いだ怪物 ガリクソン まるごと大研究」特集が大展開。ヤンキースではマーチン監督との関係は良好とは言えず、年俸も90万ドルから60万ドルへのダウン提示を受け、80年代後半はバブル景気絶頂でMLBとガチンコのマネーゲームを戦えたNPBという選択肢が急浮上。すかさず巨人が名乗りを上げ、日本球界初の前年大リーグ2ケタ勝利投手が来日する。とにかくこの時期のガリクソンは絶賛の嵐だ。

「契約更改のときも、江川さんの穴を埋められるすごいの取ってくださいよって、お願いしたんです。ガリクソンが来るとは思わなかったな」と饒舌に語る若大将・原辰徳。「1本、ものすごい柱がデ〜ンと据えられた感じだろ。よ〜し、今年もオレは自分のことを精いっぱいやればいいんだって気持ちになる」なんて笑う絶好調男・中畑清。評論家の小川邦和氏は「阪神のキーオでさえ楽に2ケタ勝てるレベルでのガリクソン登場。これはやっぱり、去年のホーナー並みの大変な騒ぎを引き起こしそうだ」なんつって興奮のあまり他球団の助っ人をディスる始末。日ごろは慎重な王貞治監督でさえ「ローテーションの軸で20勝は期待していいだろう。江川の穴は十分、埋まる」と勢いに乗ってV2宣言。ほかにも「巨人ヤング3本柱に火をつけたガリクソン効果」とあるが、88年当時の3本柱は平成を代表する斎藤雅樹桑田真澄槙原寛己ではなく、桑田と槙原、そして水野雄二で“MMK”と呼ばれていたことが今となっては新鮮だ。

糖尿病と闘いながら


巨人では2年間で通算21勝をマークした


 ガリクソン・フィーバーはしばらく続き、プロボクサーのマイク・タイソンが表紙を飾る『週刊サンケイ』3月10日号では、「現役大リーガー ガリクソン、金田以来の30勝投手になるか?」とすさまじい特集が組まれている。おそらく、日本球界で30勝を期待された投手はガリーが最後だろう。週べ4月11日号にも独占ロングインタビューが掲載され、「マスコミから何パーセントの仕上がりか聞かれても、答えようがない」なんて嘆いてみせ、日本の生活環境に戸惑いを見せる。

「ベリー・エクスペンシブ(高い!)。日本で野球をやるよりも、生活するほうがはるかに難しさを感じる。物価は高いし、安い好みのレストランを探すんだって大変だ」

 それでも2歳の娘が小学校に入るまでは日本で野球を続けたいと将来のビジョンを語り、持病の糖尿病については「ボクは積極的に生きたいと思ってるから、病気と闘いながら野球を続けるつもりだ」と前を向くメジャー・リーガー。インシュリン注射は1回2本を毎日、自分で打つ。低血糖からマウンド上で身体の震えを覚えても、動揺を顔に出さず打者を抑え、ゆっくり歩いてダッグアウトまで戻り、飴をなめたこともあったという。

 真新しい東京ドーム1年目、スーパー助っ人もスタートは順調だった。王巨人の柱を託されたガリクソンは快調に飛ばし、初登板から3連続完投の4連勝で4月月間MVPを受賞。ピッチャーゴロやライナーを素手で捕りにいくメジャー仕込みの気迫のプレーも話題に。ついでに4月27日にはゴールデンルーキー・長嶋一茂(ヤクルト)に神宮球場でプロ初ホームランを許すおまけつき。あらゆる意味で昭和最後の春のプロ野球の主役は、ビル・ガリクソンだった。しかし周囲が30勝もいけると盛り上がる中、5月から急失速。それでも夏場に意地を見せ盛り返し、最終的には14勝9敗、防御率3.10。14完投はリーグ最多というエース級の数字を残してみせた。当時まだ20歳の桑田真澄と親しくなり、長男にクレイグ・クワタ・ガリクソンと名付けたことも話題に。
 

メジャー復帰後、最多勝に


 さあ、2年目の平成元年は藤田元司新監督のもと20勝と思ったら、キャンプ中に左ヒザの半月板を損傷。アメリカに戻り手術を受ける苦難のスタートとなった。5月に戦列復帰するも、わずか7勝。終盤は右足太もも肉離れにも苦しみ、巨人対近鉄の日本シリーズ第6戦を前にした移動日に米国へ帰国する。故障でシリーズの登板が不可能だったためだが、邪魔者を追い払うかのような最後の日々。コーチたちはことあるごとに「ガリーに負けるな」「ガリーを追い越せ」と若手たちを叱咤激励したという。

「1年目はみんなが私を神様のように扱った。ところが2年目は監督もコーチも日本人の若い投手を育てることに必死になった。それはいいが、私が敵にならなければいけない理由が分からない」

 そう嘆いたガリクソンは、来日時の喧噪が嘘のように静かに巨人を去った。90年にはアストロズでメジャー復帰を果たし10勝を挙げ、デトロイト・タイガースへ移籍した91年には、32歳で自己初の20勝に到達、ア・リーグ最多勝に輝く。同チームには元阪神のセシル・フィルダーも在籍し、44本塁打、133打点で2年連続の二冠獲得。日本球界復帰組の活躍であれだけ遠かった大リーグとの距離がわずかに縮んだように感じられたものだ。

 その2年後には週刊ベースボールの企画で、現役を引退した元巨人の同僚ウォーレン・クロマティがガリクソンを直撃インタビュー。「日本では忍耐と我慢を学んだ」なんて神妙に語りつつも、クロマティからナガシマさんがトウキョウ・ジャイアンツの監督になったと教えられると二人でこう笑い合う。

「知ってるよ、ナガシマなら。彼にプロ入り第1号ホームランを打たれた投手がビル・ガリクソンだよ。このオレだよ、神宮で、ね」

「それはカズシゲ・ナガシマさ、息子のほうだよ(笑)」

 もし、巨人が3年目のガリクソンを残留させていたら、長嶋巨人でも背番号20がローテで活躍をして、その後の球史は大きく変わった可能性が高い(94年の中日との10.8決戦は存在しただろうか?)。わずか2年の日本生活。それでもニューヨークの新聞が「金だけにモノをいわせて、ビルや土地、名画を買いあさる成り金日本が野球にも進出」と書き立てたあの時代、昭和と平成を股にかけた年俸総額330万ドルのビル・ガリクソンは、好景気に沸いた80年代後半のニッポンを象徴するバブリーな超大物助っ人投手でもあった。
 
文=プロ野球死亡遊戯(中溝康隆) 写真=BBM
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