投手には剛速球で相手打者を抑え込む快感と、一方で緩いボールで、しかし、まともにバットに当てさせない快感もある。絶対打たれないボールは究極のボールで、すべての投手のあこがれだろう。平成年代にも“魔球”に近い変化球を操る投手が多々現れたが、
西武で先発、リリーフに活躍した潮崎哲也のシンカーもその一つに数えていいだろう。
以前、潮崎にシンカー誕生の経緯を聞いたことがある。投げ始めたのは鳴門高3年時の春過ぎからだったという。それまではカーブ、スライダーが持ち球だったが、落ちる球が欲しくなった。パームボール、フォークを試してみたが、試合で使えるレベルには至らず。そんなあるとき、他県の高校に潮崎と同じ右サイドスローがいたが、その投手が投げているのを目にしたとき、シンカーを投じて打者を翻弄。「ああいう球を投げたい」と即座に思った。
だが、簡単には習得できなかったという。
「本などを見て普通のシンカーの投げ方をやってみたけど、うまくいきませんでした。それで、たまたまカーブの逆の方法で投げてみたらどうなるかな、と思って試して投げてみたんです。カーブと逆の握りで、逆の手首の角度を作って、と。それで投げてみたら、これがイメージどおりにはまったんです」
薬指と中指の間から抜いて投げる落差の大きいオリジナルのシンカーが誕生。だが、よく落ちはしたが、球速が100キロ台とあまりに遅かった。
「最初に投げたときも遅くて、チームメートもびっくりしませんでしたね。でも、試合を重ねていくと、相手バッターが全然打てない。“何を投げているんだ”という感じで」
見たこともない軌道に打者も面食らったのだろう。シンカーを駆使し、高校3年夏にはチームを徳島県大会の決勝まで導いた。池田高に敗れ、甲子園出場はならなかったが、無名の投手だった潮崎にとっては大きな飛躍。卒業後に進んだ松下電器では2年目にストレートの球速が増し、シンカーとの緩急差がより生きるようになった。
そして、90年にドラフト1位で西武に入団。プロの猛者たちも潮崎のシンカーに戸惑った。7月5日の
オリックス戦では8者連続三振をマーク。投球回(102回2/3)を大きく超える123三振を奪った。
「1年目はすごくシンカーが落ちました。コースを狙って投げることができましたから。それに見逃しが多かった。高めに入ると、相手は“ボールかな”と思う。そして、そこから落ちてくるから、ちょっとかがんだような見逃し方になりましたね。8者連続三振のときもシンカーがすごくさえて、その日、2本塁打していた門田(博光)さんも全然、タイミングが合っていませんでしたね」
「シンカーがなかったら、今ごろ普通のサラリーマンですよ」と笑っていた潮崎。高校3年時、他県の右サイドスローのピッチングを見ていなかったら、球史に残るシンカーは誕生していなかったかもしれない。最後に潮崎は言った。
「めぐり逢いに感謝ですね」
文=小林光男 写真=BBM