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プロ野球1980年代の名選手

長冨浩志 ビッグマウスを連発も有言実行した右腕/プロ野球1980年代の名選手

 

1980年代。巨人戦テレビ中継が歴代最高を叩き出し、ライバルの阪神はフィーバーに沸き、一方のパ・リーグも西武を中心に新たな時代へと突入しつつあった。時代も昭和から平成へ。激動の時代でもあったが、底抜けに明るい時代でもあった。そんな華やかな10年間に活躍した名選手たちを振り返っていく。

「球の速さなら誰にも負けない」



「今は関係ない。僕は開幕に合わせて調整するだけ。開幕に間に合わせればいいんでしょ」

 キャンプ早々、こう新人が発言したことを新聞で知った広島の阿南準郎監督は本気で怒った。1986年4月17日のヤクルト戦(広島市民)で初勝利。3対2の場面でリリーフして、3回から9回までで14三振を奪うと、

「三振って、こんな簡単に取れるんですね」

 先発に定着してからは快進撃で、

「優勝すれば新人王ももらえるんでしょ」

 社会人を経ての入団とはいえ、新人らしさは皆無。その発言は話題となり、叩かれることもあったが、ビッグマウスも有言実行、きっちり結果を残したのが長冨浩志だ。

 PL学園高の桑田真澄が巨人にドラフト1位で指名され、指名を期待していた清原和博が涙を流して西武へ入団した、いわゆる“KKドラフト”で、広島から1位で指名されて入団。新人ながらキャンプではスロー調整で、冒頭の発言だ。ただ、それは単なる大言壮語ではなく、自信の表れでもあった。当時の広島は“投手王国”。そんな投手陣を見て、

「球の速さなら誰にも負けない」

 と感じたからだ。実際、のちの野茂英雄(近鉄)のような、体をひねって力をため、コンスタントに150キロを超える快速球を繰り出した。同じく剛速球で鳴らした先輩の津田恒実とは、いつもスピードで張り合って、

「負けたくない、という気持ちは津田さんにもあったはず」

 と振り返る。だが、投手層が厚いのは確かで、安定感に欠けたこともあって序盤はリリーフ起用。先発に定着したのは8月からで、12日の大洋戦(広島市民)が初先発だった。その試合で先発初勝利を挙げると、以降10試合で6完投、1完封を含む8連勝。防御率も飛躍的に安定し、腰を痛めたことで終盤はコルセットをつけての登板ながら、巨人を猛追した広島の逆転優勝に大きく貢献した。規定投球回には届かなかったが、最終的には10勝2セーブ。有言実行の新人王に輝いた。

 西武との日本シリーズでは第3戦(西武)で勝利投手となるも、3勝2敗1分で迎えた第7戦(広島市民)では好投したものの敗戦投手となり、シリーズは史上初の第8戦に突入。これに惜敗して、広島は日本一を逃している。

微調整を繰り返した投球フォーム


 どうしてもビッグマウスが目立つが、そのルーキーイヤーに腰を痛めたことを教訓に、体のひねりを抑える投球フォームに修正。その後もフォームの研究を重ね、微調整を繰り返した頭脳派でもあった。だが、翌87年からは2年連続で5勝。黄金時代も終盤だったとはいえ、強い広島で負け越しが続いた。

 初の規定投球回が89年だ。10勝を挙げてルーキーイヤー以来となる2ケタ勝利と勝ち越し。翌90年には自己最多の11勝、92年にも11勝を挙げた。だが、1ケタにとどまったシーズンは、すべて負け越し。91年は開幕投手を任されたが、足首痛もあって精彩を欠いて5勝、93年からは急失速して、

「このままではダメだ」

 と移籍を希望して、95年に日本ハムへ。新天地では制球を重視してスライダーの精度にこだわる投球に切り替える。セットアッパーとして起用され、広島ではチームメートだった金石昭人が故障してからはクローザーも務めた。97年にはサイド気味に腕を下げたものの、オフに解雇。ダイエーに声をかけられ、

「変なプライドが消えた。必要とされているうちは投げ続けようと思った」

 という。ダイエー1年目の98年はセットアッパーとして33試合の登板、21イニングながら3セーブ、防御率1.29の安定感。王貞治監督に言われてスリークオーター気味にすると、スライダーの制度を維持しながらも球速が上がり、連覇にも貢献した。余談だが、97年には登録名の読みを「ながとみ」から「ながどみ」に“微調整”している。

「みんなが発音しづらいだろうと思って」

 だという。ビッグマウスのクセモノには違いないが、どこか憎めない右腕だった。

写真=BBM
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