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プロ野球1980年代の名選手

吉村禎章 ファンの記憶の中で特別な輝きを放つ天才打者/プロ野球1980年代の名選手

 

1980年代。巨人戦テレビ中継が歴代最高を叩き出し、ライバルの阪神はフィーバーに沸き、一方のパ・リーグも西武を中心に新たな時代へと突入しつつあった。時代も昭和から平成へ。激動の時代でもあったが、底抜けに明るい時代でもあった。そんな華やかな10年間に活躍した名選手たちを振り返っていく。

札幌円山球場の悪夢


巨人・吉村禎章


 1988年、北海道へ遠征中の巨人は、7月5日の中日戦(旭川)で中日に9対4で快勝。その勝利を呼び込んだのが4打数2安打、1本塁打、2打点の吉村禎章だ。札幌円山球場で開催された翌6日の同カードも好調を維持。3回裏には3試合連続、記念すべき通算100号本塁打を右翼席へと放り込む。まだ25歳。前途有望な若武者だ。だが、運命の歯車は徐々に狂い始めていた。そして一気に、若者の未来を奪わんと牙をむく。

 7回裏には9対1と巨人が大量リード。「打ったら次の守備から交代」と王貞治監督が声をかけてきたが、前の打者が凡退して、そのまま8回表の左翼守備に就く。一死後。中尾孝義が左中間へ放った打球を追いかけ、捕ろうとした瞬間だった。同様に打球を追っていた中堅の栄村忠広と激突。ヒザが、あり得ない方向に曲がっていた。すぐ担架で運ばれ、救急車で北大付属病院へ。メモリアルアーチの直後に暗転した運命。まさに悪夢だった。

 PL学園高では2年生から三番を打ち、3年生で主将となってセンバツ優勝に導く。2回戦で放った決勝の本塁打は大会通算200号のメモリアルアーチでもあった。そしてドラフト3位で82年に巨人へ入団。法大への進学が濃厚だったが、当時は助監督だった王から直接「プロでやるなら早いほうがいい」と電話をもらい、入団を決意した。背番号は55。入団直後に一塁から外野へとコンバートされた。

 1年目は4試合の出場に終わるも、2年目の83年には一軍に定着、6月29日の阪神戦(後楽園)で初本塁打を放つと、以降3試合にまたがる3打席連続本塁打で注目を浴びる。開幕戦で初打席満塁本塁打を放った背番号50の駒田徳広、12勝で新人王となった背番号54の槙原寛己とともに“50番トリオ”と騒がれ、主に代打ながら104打席で5本塁打、打率.326。翌84年も規定打席未満ながら13本塁打、打率342を記録した。85年が初の規定打席到達。16本塁打、リーグ3位の打率.328で、本人は、

「プロでやっていく自信がついた」

 と語ったが、解説者やマスコミからは「将来の四番打者」「10年はクリーンアップを打てる」と言われるようになる。翌86年からは2年連続で首位打者争いにも絡んだ。

「自分はホームラン打者ではなく中距離打者。アベレージと打点で勝負したい」

 と思っていったが、本塁打も23本、30本と増やしていく。“巨人の歴史を変える男”という評価も、決して大袈裟ではなかっただろう。その矢先の大事故だった。左ヒザじん帯4本のうち3本を断裂、腓骨神経も損傷。選手生命が絶たれた。そう誰もが思っただろう。

そして奇跡の復活へ


「ヨシムラが復帰できるかどうかは分からない」

 渡米して手術を受けたものの、手術を成功させたジョーブ博士でさえ、こう語った。術後2日目から始まった懸命のリハビリ。それ以上に過酷だったのは、激痛との戦いだった。8月には帰国してリハビリ専用の施設へ。翌89年2月に再手術。じん帯は順調に回復していたが、神経が戻らない。足首から先を自力で動かせない状態が続き、リハビリ用に特注したバネつきのギブスで、その動作はサポートした。そこから練習再開、二軍戦と、段階を追って少しずつ、徐々に、だが確実に、前へと進んでいく。

 89年9月2日、ヤクルト戦(東京ドーム)。423日ぶりの打席に、大歓声が沸き起こる。それまでの日々は想像を絶するものだったはずだ。

「復帰戦の光景を、ずっと頭に描いてきた」

 という。新人の川崎憲次郎が投じた4球目。二ゴロに終わったが、走りながら感極まり、ベンチでも大粒の涙を流し続けた。その4日後の大洋戦(横浜)では6回表二死満塁の場面で石井忠徳(のち琢朗)から復帰後の初安打を2点適時打で飾る。その後も状態が完全に戻ることはなかったが、翌90年には優勝を決めるサヨナラ本塁打を放つなど、ここ一番の場面で本領を発揮し続け、98年にユニフォームを脱いだ。

 巨人の歴史を塗り替えることはできなかったかもしれない。ただ、その歴史においても、ファンの記憶の中でも、今なお特別な輝きを放っている左の天才打者だ。

写真=BBM

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週刊ベースボール編集部

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