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プロ野球1980年代の名選手

立浪和義 “竜のプリンス”の躍進と挫折/プロ野球1980年代の名選手

 

1980年代。巨人戦テレビ中継が歴代最高を叩き出し、ライバルの阪神はフィーバーに沸き、一方のパ・リーグも西武を中心に新たな時代へと突入しつつあった。時代も昭和から平成へ。激動の時代でもあったが、底抜けに明るい時代でもあった。そんな華やかな10年間に活躍した名選手たちを振り返っていく。

高卒新人ながら開幕スタメン



 1987年、PL学園高の主将として甲子園の春夏連覇を達成し、その秋のドラフト1位で中日に指名されて入団した立浪和義。ドラフトでは南海も1位で指名したが、就任2年目の星野仙一監督が交渉権を引き当てた。練習の虫らしく、あいさつに来たスカウトに、

「ひとりで室内練習場を使って構いませんか」

 と尋ねたという。与えられた背番号は3。中日の期待を象徴するかのような栄光のナンバーだ。ただ、当の黄金ルーキーは、

「まずは開幕一軍」

 と、まだレギュラーなど頭になかった。中日の遊撃には87年に30本塁打を放った長距離砲で、人気者でもある宇野勝がいたこともある。だが、オープン戦で星野監督は宇野に「ショートで立浪を開幕から守らせる。お前はセカンドに行ってくれ」と告げた。「まったく迷いはなかった。あいつ(立浪)は野球センスの塊だったからね」と星野監督は振り返る。そして、22年ぶりとなる高卒ルーキーの開幕スタメンが実現した。

 その4月8日の大洋戦(ナゴヤ)、第3打席でプロ初安打。のちに通算二塁打で現在もプロ野球の頂点に君臨する“二塁打の申し子”は、初安打も二塁打だった。持ち前の瞬発力を利した遊撃守備も軽快で、そのまま遊撃手としてレギュラーを維持。ただ、中日は開幕戦に敗れ、その後も連敗が続いて黒星が先行した。

「高校のときは練習試合も含めて1年間に2試合くらいしか負けたことがなかったんですよ。プロはよく負けるなって(笑)」

 球宴にもファン投票で出場して初打席初安打。プロのペースがつかめないまま、無我夢中で食らいついていった。だが、それによって蓄積された疲労は終盤に噴出する。体力がガクンと落ち、成績も急降下。キャンプで痛めた右肩も悪化した。それでも、最終的には打率.223ながら、自己最多の22盗塁もあり、リーグ優勝への貢献も評価されて、新人王、高卒ルーキーとしては初のゴールデン・グラブに輝いている。

 日本シリーズでは、PL学園高の先輩でもある清原和博がいる黄金時代の西武と激突して、完敗。5試合で2安打に終わり、送りバントの際に空振りしたことも。

「上には上がいる」

 と痛感した頂上決戦だった。ただ、この日本シリーズ中、さらに右肩痛は悪化。痛み止めの注射を打って、ごまかしながらの出場でもあった。そして、翌89年のキャンプで、ついに右肩は上がらなくなる。

どん底の89年


 身体能力は抜群だったが、身長173センチ、体重70キロ。プロ野球選手としては恵まれた体とは言えない。それでも、プロ1年目の右肩に始まり、左肩、腰、ヒザなど満身創痍になりながらも、中日ひと筋で22年の現役生活をまっとうして、通算2480安打を積み上げた。現役を引退したときに、

「努力は当たり前のこと」

 と言い切ったが、それは当たり前のように努力を重ねてきたということでもある。そんな男のプロ2年目、89年は、波乱万丈の現役生活にあって、もっとも苦しい1年だったかもしれない。開幕も二軍スタート。合宿所から電車で数時間かけて、奈良県の病院にも通った。だが、なかなか完治しない。そして、スポーツ医学の第一人者で、ヒジ痛に苦しむロッテ村田兆治ら、プロ野球選手の手術を成功させてきたフランク・ジョーブ博士を頼って海を渡る。手術も視野に入っていたが、ジョーブ博士は「手術の必要はない。周辺の筋肉を正しく鍛えれば大丈夫」と断言。懸命のリハビリが始まった。

 89年は30試合の出場に終わったが、

「もう二度と、二軍に戻ってたまるか」

 と、翌90年には遊撃の定位置に返り咲く。92年には二塁へコンバート。その後は外野や三塁を守りながら、第一線に立ち続けた。中日1年目に与えられて、期待の象徴だった背番号3は、やがて“平成ドラゴンズ”の象徴へと昇華していくことになる。

写真=BBM
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