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プロ野球1980年代の名選手

山本昌広 球史に残す左の鉄腕が礎を築いた時代とは?/プロ野球1980年代の名選手

 

1980年代。巨人戦テレビ中継が歴代最高を叩き出し、ライバルの阪神はフィーバーに沸き、一方のパ・リーグも西武を中心に新たな時代へと突入しつつあった。時代も昭和から平成へ。激動の時代でもあったが、底抜けに明るい時代でもあった。そんな華やかな10年間に活躍した名選手たちを振り返っていく。

恩師との邂逅



 2015年、50歳で現役を引退した中日の山本昌。プロ32年目に迎えたラストイヤーだったが、その32年間をさかのぼっていくと、1980年代にたどりつく。当時の登録名は本名の山本昌広。ドラフト5位で84年に入団した左腕が、そこまで長きにわたって投げ続けることになるとは、自身も含め、誰もが夢にも思っていなかった時代だ。

 神奈川の日大藤沢高では1年の秋からエースナンバーを背負うも、激戦区でもあり甲子園には届かず。プロのスカウトが挨拶には来ていたが、日大へ進んで、教員免許を取るつもりでいた。それが83年秋のドラフトで、父親がファンだった中日の指名を受ける。

「指名された瞬間は『オヤジが喜んでいるだろうな』ということが真っ先に頭に浮かんだ」

 と振り返るが、迷った末、高木時夫スカウトの熱心な誘いもあって入団を決めた。与えられた背番号は34。通算400勝を積み上げた金田正一(国鉄ほか)が圧倒的なインパクトを残した左腕ナンバーだ。だが、この若き左腕の前には、プロの壁が立ちはだかる。一軍デビューは3年目の86年だったが、1試合の登板で防御率27.00。オフには星野仙一監督が就任し、秋季キャンプのブルペンで投げていると、「おい、ヤマよ、いつになったら本気で投げるんだ」と言ってきた。困ったが、

「ずっと本気です」

 と答える。球速は目いっぱい投げても130キロそこそこ。体が186センチと大きかったこともあって、周囲には見かけ倒しに映った。翌87年には開幕一軍も、3試合の登板で防御率16.20。左ヒジを痛めたこともあり、すぐに二軍へ。電気治療やマッサージなど、いろいろ試したが、まったく効果がない。これは99年になって前腕部の疲労骨折だったことが判明するのだが、秋になると、なんとか投げられるようになった。

 一時は戦力外の候補にも挙げられるも、星野監督の意向で残留。そのオフ、中日はベロビーチでキャンプを張った。終了後、星野監督に呼ばれて「フロリダに1年、残っていろ」と言われる。このとき面倒を見てくれたのが、ドジャースのオーナー補佐だった“アイク”生原昭宏だ。このキャンプで、長い活躍を支える“宝刀”スクリューボールを手にすることになるのだが、生原にドジャースの投球練習に連れていかれ、左腕のバレンズエラが投じるスクリューを見せられて「これを覚えたら」と言われたときには、右投手のカーブのように変化するスクリューのすさまじさに、絶対に自分には投げられないと思ったという。

 ところが、

「スパグニョーロという選手の球を見て、これなら、と思ったんです」

“宝刀”スクリューを習得した瞬間


 無名の投手どころか、スパグニョーロは内野手。キャッチボールで変化球を投げて遊んでいるのを見て、握りを教えてもらい、試合で投げてみたら、面白いように打者のバットが空を切った。そして8月下旬に帰国。首位を走る中日に合流する。

 その後は8試合に登板して防御率0.55、プロ初勝利を含む無傷の5連勝。シーズン終盤ではあったが、中日6年ぶり、星野監督には初めてとなる優勝に貢献。たびたび生原からは電話があり、アドバイスを送ってくれたという。そして、勝った後は必ず、生原へ電話をかけた。

 翌89年は9勝にとどまり、ふたたびフロリダへ。このときは生原が自ら捕手を務めて、スローカーブも教わった。なかなか曲がらなかったが、生原には「3年かかるかもしれないけど、絶対、曲がるから」と言われる。そして実際、そのスローカーブが武器になったのは、3年後のことだった。

 その後も球速は140キロを超えればいいほうだったが、それを快速球に見せる、堂々としたワインドアップからの投球フォームとキレ、さらにはスクリューとカーブ。この投球スタイルは最後まで一貫していた。全盛期は90年代に入ってからだが、そのスタイルが確立されたのは80年代。球史に残る左の鉄腕が、その礎を築いた時代だった。

写真=BBM
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