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プロ野球1980年代の名選手

田村藤夫 「伊東より実力は上」とも言われた名キャッチャー/プロ野球1980年代の名選手

 

1980年代。巨人戦テレビ中継が歴代最高を叩き出し、ライバルの阪神はフィーバーに沸き、一方のパ・リーグも西武を中心に新たな時代へと突入しつつあった。時代も昭和から平成へ。激動の時代でもあったが、底抜けに明るい時代でもあった。そんな華やかな10年間に活躍した名選手たちを振り返っていく。

球界No.1の捕球と強肩



 1980年代の後半、パ・リーグでは、捕手のベストナイン、ゴールデン・グラブは西武の伊東勤が、ほぼ独占。黄金時代の西武を不動の司令塔として支えていたのだから、当然といえば当然なのかもしれない。ただ、その同時期に、「伊東より実力は上」と言われていたのが、日本ハムの田村藤夫だった。捕手に要求される捕球、スローイング、リードなど、すべての技術が一級品。日本ハムの低迷期ということもあって目立つ存在ではなかったが、特に強肩と捕球のうまさはパ・リーグにとどまらず、球界No.1と評されている。

 78年秋のドラフトで、最下位の6位で指名されて79年に入団。翌80年にはヤンキースのA級に野球留学、その翌81年に初めて一軍の春季キャンプに参加したものの、オープン戦の途中にファーム落ち。それでもシーズン最終戦となった9月27日の阪急戦(西宮)で途中出場ながら一軍デビューを果たすと、“世界の盗塁王”福本豊の盗塁を阻止。

「自信になった。セーフくさかったけど(笑)」

 続く82年に一軍定着。背番号も35から、捕手のイメージが強い22へと変更に。ただ、まだまだ司令塔の大宮龍男が健在で、控え捕手に甘んじた。それでも、大宮が死球禍で離脱すると、37試合に出場して打率.308をマーク。強肩強打を武器に、じわじわと大宮の牙城に迫る。その後は83年に40試合、84年には77試合と着実に出場機会を増やし、85年、ついに司令塔の座に定着した。

 初めて球宴にも出場し、ペナントレースではキャリア唯一の全試合出場となった86年は打撃のキャリアハイにもなる。七番打者としてスタートしたが、一時は五番にも座り、疲れもあってか夏場から失速したものの、初の規定打席到達で打率.274、自己最多の19本塁打。巧みな右打ちも光って、

「バットでも投手陣を助けたい」

 と語った。捕手としては盗塁阻止率.427をマーク。ベストナイン、ゴールデン・グラブをダブル受賞した伊東の盗塁阻止率.345を上回る数字だ。以降、盗塁阻止率では5年連続で伊東を凌駕している。

 翌87年は自己最多の60打点、自己最高の打率.275。その翌88年は打撃こそ失速したものの、自己最高の盗塁阻止率.465をマークしている。続く89年まで4年連続2ケタ本塁打を放ち、10月1日のダイエー戦(平和台)ではサイクル安打を達成。

「意識しないようにと思ったんだけど、みんなが狙え、狙えと大騒ぎするし、最後はもう、やるしかないな、って(笑)」

 プロ野球41人目となる快挙に、試合後は報道陣に囲まれて、

「いつもはホームラン打っても誰も来ないから、たまにはいいもんだね」

 と、声を弾ませた。

現役でプロの手本に


 リードでは、いかに投手の長所を引き出すかを考え、あくまでもワキ役に徹するスタンス。マウンドでも投手を怒ることはなく、常に励ますことで投手を奮い立たせた。捕手としてだけでなく、バットで、そして背中でチームを引っ張り、選手会長をしていた時期が長かったこともあって、フォア・ザ・チームの精神が体に染みついていた男だ。「球界きっての捕手」という評価も変わらず、移籍のウワサが出るたびに多くの球団が色めきたった。

 93年にはキャリア唯一のベストナイン、ゴールデン・グラブに輝く。だが、80試合の出場にとどまり、連続100試合出場が10年で途切れた95年オフ、FAについて球団と相談するつもりが、まさかの戦力外通告。翌96年にロッテへ、その翌97年にはFAでダイエーへ移籍する。

 これは日本ハム時代にチームメートだった若菜嘉晴コーチが「3年目を迎える城島健司の手本に」と考えたためで、試合終盤の“リリーフ捕手”的な役割を中心に22試合の出場、そして98年オフに現役を引退してバッテリーコーチに就任した。その後は、ほとんど途切れることなく指導者として手腕を発揮している。

写真=BBM
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