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伊原春樹コラム

“超アスリート”秋山幸二のすごさとは?/伊原春樹コラム

 

月刊誌『ベースボールマガジン』で連載している伊原春樹氏の球界回顧録。5月号では秋山幸二に関してつづってもらった。

最初は打撃も不恰好だったが……


長打力のある打撃に加え、守備、走塁も高いレベルを誇るパーフェクトな選手だった


 これから折に触れて、私が野球人生でかかわってきた野球人についてつづっていきたいと思う。今回は秋山幸二。付き合いの始まりはアキが1981年、ドラフト外で西武に入団してからだ。私は前年、現役を引退して二軍守備・走塁コーチに就任し、指導者生活をスタートさせていた。

 プロ野球選手になったばかりのアキはまだ体も出来上がっておらず、ヒョロッとしていたことを覚えている。バッティングは構えが不恰好で特筆すべきことがあるようには感じられなかった。ただ、ランニングをしている姿を見ているとバネがある。チームの先輩に小沢誠という快足の持ち主がいたのだが、彼と短距離で競争させてみてもアキは引けを取らない。さらに、寮に鉄棒があったのだが186センチと長身にもかかわらず懸垂を苦もなくこなし、逆上がりなども器用に回るから驚いた。身体能力の高さは感じたものだ。

 そして、当初は目も見張るものがなかった打撃に関してもシーズンを重ねていくうちに二軍で快打を飛ばすようになっていった。しかも、飛距離が圧倒的。体全体で打つのではなく、リストの強さを生かしたバッティングは非常に素晴らしいものだった。

 アキが一軍定着する前の二軍時代、何度かアメリカへ野球留学をしているが、私が引率者となったときもあった。ヒューストン・アストロズ傘下のチームでプレーしていたのだが、同じチームにグレン・デービスという選手がいた。アキとは年齢が同じくらいで、聞けば超有望株だという。アメリカのコーチが「この選手は将来、ウチの四番を打つ」と言ってくるから、私も「アキもクリーンアップを打つ選手になるよ」と言い返した。

 日本から来た選手に対して、アメリカのコーチも懐疑的な目で見ていたが、アキのプレーを見ると評価が一変。そのうち、メジャーの監督が視察に来たとき、「ぜひ、わがチームにほしい」と声を掛けてきたくらいだ。もし、そのままアストロズ入りしたとしても、あれだけの運動神経をしているから、メジャーでも2000安打はクリアしたのではないかと思う。

 一方のグレン・デービスも素晴らしい選手だった。サードを守っており、少し太めだったが朝方、いつも走っていたのが思い出される。もっと締まった体にしないといけないというのを感じて自発的にランニングをしていたのだろう。努力家で、非常に性格も良かった。グレン・デービスも順調に成長を果たし、84年にメジャーデビュー。中軸打者として86年には31本塁打。88、89年にも30本塁打超えを果たし、オリオールズを経て、95年阪神へ(登録名はグレン)。1年目に23本塁打をマークしたが、翌年は調子が上がらず、6月に途中帰国してしまった。

日本シリーズで注意した走塁


新人時代の秋山。当時、まさか2000安打を放つ選手になるとは思わなかった


 二軍でみっちりと鍛えられたアキは3年目の秋のキャンプから長池徳士コーチの付きっ切りの指導が始まる。長池コーチは阪急での現役時代、3度の本塁打王に輝いたスラッガー。その長池コーチの指導の一つに、マシンで内角高めを徹底的に打つ練習があった。内角高めは打者が最も嫌がるコース。そこを克服すれば、ほかのコースを簡単に対応できる、というのが長池コーチの考え方だった。

 84年、アキは一軍で54試合に出場したが、試合前に室内練習場で打ち込みをしてから球場入りする毎日。長池コーチとマンツーマンで打撃を作り上げていった。その努力が実を結び、5年目に40本塁打をマーク。黄金時代に突き進んでいくチームの三番として、アキも羽ばたいていくことになる。

 アキのすごいところは攻守走が高いレベルでそろっていた点だ。それまで高身長で足の速い選手などいなかったから、画期的なことでもあった。盗塁王獲得は90年の1度のみ(51盗塁)だったが、それもアキがクリーンアップを打っていたから。フリーに走れる状況の多い別の打順を任されていたなら、もっとタイトルを盗塁王に輝いていただろう。

 アキに走塁でアドバイスしたこともほとんどない。背が高いから若干スタートは遅れるが、中間走が速い。走塁の勘も良かった。ただ、92年、ヤクルトとの日本シリーズで走塁に関してアキに忠告したことは覚えている。西武の3勝2敗で迎えた第6戦(神宮)のことだ。6対7と1点ビハインドの9回二死から大塚光二が四球で出塁。ここでアキが打席へ。とらえた打球は右中間に弾んだ。フェンスの手前10メートルくらいのところで、中堅手の飯田哲也が打球をつかんで、二塁手のパリデスへ送球。一走の大塚は打った瞬間から判断良く、一気にホームを突く気持ちで走ってきたので、三塁コーチャーの私も躊躇なく右腕をグルグル回して同点となった。

 そして「アキも二塁へ行ったな!」と思って二塁ベースを見ると、アキがいない。「なんで二塁へ行かないんだ!」とジェスチャーでアキへ訴えかけると、アキは「目の前の野手(パリデス)がボールを持っているから無理ですよ」とジェスチャーで返してきた。

 ただ、この場面、もしアキの打球がフェンスまで届いていれば、相手も「同点は仕方ない」と思い、二塁手はホームに返球せず、打者走者を二塁へ進めないことを考えるだろう。しかし、この場面は9回の1点差。しかも、外野手がフェンス手前で打球を処理しているのだから、中継した二塁手も100パーセントに近い確率でホームに返球する。アキの脚力なら、二塁への進塁は十分に可能だった。おそらくアキは最後まで二塁手のプレーを確認することなく、目を切ってしまっていたのだろう。

 この回、後続が倒れ同点止まり。西武は結局、10回裏に秦真司にサヨナラ本塁打を浴びて敗戦。3勝3敗のタイとなってしまった(第7戦で西武が2対1で勝利して日本一)。まあ、難しい走塁ではあったが、いかなるときも走者は貪欲に次塁を狙わないとアキの走塁を見て思ったものだ。

秋山翔吾に「アキを見習え!」


身体能力の高さは抜群だった


 アキの外野守備も絶品だった。当初はサードを守っていたが、石毛のサードコンバートに伴い、強肩と俊足を生かす意味もあって87年からセンターへコンバートされた。守備範囲は非常に広く、ちょっとやそっとでは打球が抜けない。後ろの打球に対しても勘がいい。本当に最高のセンターだった。

 現在の西武でセンターを守る秋山翔吾もうまいが、若いころは頭から飛び込んだり、スライディングをしたりして捕球するプレーが目立った。当時、テレビなどで解説をしていると、そんなプレーを見るたびにアナウンサーが「さすが秋山! ナイスプレーですね」と言っていたが、私は次のように答えていた。「確かによくキャッチしましたが、監督からしたらヒヤヒヤもののプレーですよ。危険なプレーで、いつケガをするか分かりませんから」。

 アキは決してそのようなプレーはしなかった。判断良くスタートして、飛び込むことなくシャッと捕球する。その姿は非常にスマート。決して危なっかしいプレーはしなかった。いわゆる球際に強いプレーだ。秋山のそんな守備が気になっていた私は2014年、2度目の西武監督に就任したとき、それを本人に指摘した。「お前さんなら、アキのようなプレーができるはずだ」と。すると、秋山も懸命に練習を繰り返し、今ではそういった危険なプレーはほとんど見られなくなった。

 94年、佐々木誠らとの3対3のトレードでアキはダイエーに移籍。非常にショックだったが、新天地でもアキらしいプレーが見られ、うれしかった。現役引退後、解説者を経て、05年にソフトバンクの二軍監督に就任。そのころ、食事に行くと、現役時代と打って変わって、よくしゃべるようになった。特に野球の話になると止まらない。現役時代から研究熱心ではあったが、指導者となり、やりがいを感じるところもあったのだろう。09年から一軍監督となり、2度の日本一を達成。14年限りでユニフォームを脱いだが、また、どこかのチームで指揮を執るアキの姿を見てみたいものだ。

写真=BBM
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