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プロ野球回顧録

総勢9人! 歴代外国人監督の通信簿

 

ロッテ・バレンタイン監督


1リーグ時代は杉田屋守(黒鷲)らハワイ生まれの日系選手が兼任監督を務め、2リーグ分立後はやはりハワイ生まれの若林忠志(毎日)、田中義男(阪神)が専任監督となったが、本格的な外国人監督時代の到来は1970年代まで待たなければならなかった。ここでは、1972年から中日の指揮を執った与那嶺要監督から現在のDeNAラミレス監督まで9人の指揮官の実績を振り返る。

打倒巨人の反骨心でV10阻止


中日・与那嶺要監督


与那嶺要監督(中日)
1972〜77年
評価A
監督通算成績:通算6年780試合388勝349敗43分 勝率.526

 外国人監督の先陣を切ったのが、先達と同じハワイ出身の日系二世、与那嶺要だ。現役時代は巨人のスタープレーヤーだった与那嶺は、62年に中日で現役を引退。その後は中日、東京のコーチを経て、巨人入団時の恩師・水原茂が監督を務めていた中日に70年からコーチとして復帰すると、水原の退任に伴って72年に監督に昇格した。

 普段は穏やかな笑みを絶やさなかったが、胸の内は誰よりも熱い男だったという「ウォーリー」がナインに説いたのはハッスルプレー。さらに──。

「晩年になって巨人から追い出されたということもあって、巨人に対する反抗心、打倒巨人という意識が強烈で、そういう意味でもピッタリ気が合いましたね」

 与那嶺が監督の時代にエースになった星野仙一がのちに述懐しているように、古巣の巨人、そして自らを追い出す格好になった川上哲治監督には強烈なライバル意識を燃やした。

 この指揮官の執念が、ナインの中にあった「巨人コンプレックス」を払拭。中日は与那嶺が監督となった72年から2年連続で巨人に勝ち越すと、74年には悲願のリーグ優勝を果たし、巨人のV10を阻止した。

純然たる外国人監督第1号


広島・ルーツ監督


ルーツ監督(広島)
1975〜75年途中
評価C
監督通算成績:通算1年15試合6勝8敗1分 勝率.429

 与那嶺が外国人としては初のリーグ優勝監督になった翌年、75年に広島の監督に就任したのがジョー・ルーツである。

 アメリカ本土アイオワ州の生まれで、選手としてメジャー・リーグでプレーし、インディアンスでコーチも務めたという経歴は、当時の日本球界では異色だった。つまり、このルーツが純然たる外国人監督の第1号ということになる。

 74年は広島の打撃コーチを務め、翌75年に監督に昇格したルーツがまず試みたのは、選手たちの意識改革だった。

「とにかく『何を置いても優勝しなきゃダメだ』と。もうこればっかりだったですよ。彼が何か言うときは必ず『優勝』という言葉が入る。おかげで優勝したいと初めて思いましたね。そこまで追い込んでくれました。これは日本人の監督さんじゃできない」

 ルーツによって一塁手から三塁手にコンバートされ、新背番号の3を与えられた衣笠祥雄は、当時をこのように振り返っている。

 だが、そのルーツ政権も長くは続かなかった。まだ開幕から日も浅い4月27日、甲子園での阪神戦で球審に激しく抗議して退場処分を受けると、その際の球団側の対応を不服として、突如として退団。わずか15試合、6勝8敗1分けという成績を残して日本を去ることとなった。

 ルーツによって戦う姿勢を植えつけられた広島ナインは、ヘッドコーチから監督に昇格した古葉竹識の下で、球団創設26年目で初のリーグ優勝。そこにルーツの姿はなかった。ルーツのレガシーはこの年から前指揮官の意向で採用された「赤ヘル」だけではなかった。

コーチとしては有能だったが……


阪神・ブレイザー監督


ブレイザー監督(阪神、南海)
1979〜80年途中、81〜82
評価C
監督通算成績:通算4年416試合180勝208敗28分 勝率.464

 外国人監督の系譜を継いだのが、現役晩年に南海で二塁手としてプレーし、引退後は野村克也兼任監督の懐刀としてヘッドコーチを務めたブレイザーことドン・ブラッシンゲーム。

 野村の解任とともに南海を退団したブレイザーは、元同僚の古葉竹識が指揮を執る広島にコーチとして呼ばれた後、79年に阪神の監督に就任。野村監督の「ID野球」の源流となったシンキング・ベースボールの頭脳には、前年は球団史上初の最下位に沈んだチームの立て直しが期待された。

 その就任1年目、世間を揺るがせた「江川事件」によって巨人から移籍してきた小林繁が古巣を相手に8連勝をマーク。これがモノを言って、阪神は前年は大きく負け越していた巨人に17勝8敗と勝ち越し、虎党は大いに溜飲を下げた。

 しかし翌80年、大物ルーキーの岡田彰布の処遇を巡って、ブレイザーは球団と対立。最後はフロントが指揮官に何の断りもなく新外国人を獲得したことで両者の間の溝は決定的となり、ブレイザーは5月半ばに辞任。自身も南海でシンキング・ベースボールに触れていた江本孟紀は「ブレイザーの退団で、チーム再建のチャンスは消えた」と、肩を落としたという。

 ブレイザーは翌81年には古巣・南海の監督に就任したが、1年目、2年目とも前期5位、後期6位の成績。コーチとしては有能だったが、監督としては期待に応えたとは言い難かった。

NPB監督初のメジャー監督経験者


ロッテ・バレンタイン監督


バレンタイン監督(ロッテ)
1995年、2004〜09年
評価A
監督通算成績:通算7年966試合493勝450敗23分 勝率.523

 初めてメジャー監督経験者がNPBの監督になったのは、95年のこと。この年からロッテのGMに就任した広岡達朗が、レンジャーズの監督を8年務めたボビー・バレンタインを新監督として招聘したのだ。

 選手を乗せるのが上手なモチベーターの下で、チームは10年ぶりのAクラスとなる2位に躍進。だが、その陰で広岡GMとの確執が表面化し、バレンタインは1年で退団してしまう。

 帰国後はメッツの監督としてメジャー復帰を果たすと、2000年にはワイルドカードからプレーオフを勝ち抜いて、ワールド・シリーズにコマを進めた。そして、04年には重光昭夫オーナー代行に請われてロッテ監督に復帰する。

「95年のシーズンでバレンタインのすごさみたいなものは十分に感じていた。04年にボビーが戻ってきて翌年もボビーの契約があるとなったときは、シーズンオフから相当期待していた」

 95年にバレンタインの下で11勝を挙げ、メジャーでもバレンタインのいたメッツで投げた小宮山悟は、自身もロッテに復帰した04年から翌年にかけての心境をそう振り返っている。

 その05年、ロッテはスタートしたばかりのセパ交流戦で初代王者になると、前回バレンタインが指揮を執った95年以来の2位でシーズンを終了。前年から復活したプレーオフでは第1ステージで西武、第2ステージでソフトバンクを撃破し、当時の規程で31年ぶりのパ・リーグ王者に輝いた。

 さらに日本シリーズでは阪神を4タテ。その変幻自在な采配は「ボビーマジック」と呼ばれ、ファンサービスに熱心に取り組んだこともあって、第1期と合わせて在任7年という長期政権を築いた。

最下位から浮上できず


オリックス・レオン監督


レオン監督(オリックス)
2003年途中〜03年
評価D
監督通算成績:通算1年120試合41勝76敗3分 勝率.350

 2003年は、かつてはロッテなどで助っ人として活躍したレオン・リーがオリックスの打撃コーチとして日本球界に復帰すると、石毛宏典監督の解任に伴ってシーズン序盤に監督に昇格している。

 攻撃重視の指揮官の下、オリックスはリーグ2位のチーム打率をマークする一方で、チーム防御率は歴代ワースト。失策数もリーグでもダントツと、投打の極端なアンバランスを露呈した。その結果、就任時の最下位から浮上することはできず、レオンは1年で退団を余儀なくされた。

パフォーマンスで人気者に


広島・ブラウン監督


ブラウン監督(広島、楽天
2006〜10年
評価C
監督通算成績:通算5年719試合318勝382敗19分 勝率.454

 助っ人からの監督転身組には、2006年に広島の監督となったマーティ・ブラウンもいる。現役時代は広島でもプレーしたブラウンは、帰国後はマイナー・リーグの監督を務め、06年に広島の監督として再来日。ファンサービスを重視し、退場処分を受けた際にベースを引き抜いて放り投げるパフォーマンスは人気となったが、4年の在任中にAクラスは一度もなく、マツダスタジアム元年の09年を最後に解任された。

 翌10年は楽天の監督に転身も、最下位に終わって1年で退任。人気はそれなりにあったが、監督として成功したとはいえない。

犠打なし米国流采配を転換


日本ハム・ヒルマン監督


ヒルマン監督(日本ハム)
2003〜07年
評価S
監督通算成績:通算5年683試合349勝320敗14分 勝率.522

 2003年には、まだ東京ドームを本拠地としていた日本ハムの指揮官に、トレイ・ヒルマンが就任。選手としても指導者としてもメジャーの経験はなかったものの、ヒルマンにはヤンキース傘下のマイナー・リーグで監督を11年間務めた経験があった。

 当初はアメリカ流の采配を通し、送りバントは多用しなかった。ところがいつしか、走者を送るべき場面でバントをさせないとチームが活気づかないことに気付き、方針を転換。札幌ドームに本拠地を移して3年目の06年には、リーグ最多の133犠打を記録するまでになった。

 もちろんこれだけが要因ではないが、日本ハムはこの年、1位でシーズンを終了。当時のプレーオフ制度では、これに勝たなければリーグ優勝にはならなかったが、3位から勝ち上がってきたソフトバンクを破って25年ぶりのリーグ王者に輝いた。

 日本シリーズでも中日を4勝1敗で破り、東映時代以来、実に44年ぶりの日本一。チームの札幌移転以来、フロントとともに積極的に地域密着に尽力してきた「88番」は、この年のユーキャン新語・流行語大賞でトップ10入りする「シンジラレナ〜イ!」のセリフで、札幌ドームのスタンドを埋めた地元ファンを大いに沸かせた。

 翌07年も日本ハムをリーグ優勝に導いたヒルマンは、この年限りで日本を去り、08年はロイヤルズで念願のメジャー・リーグ監督に就任した。日本での5年間でAクラス3回、うちリーグ優勝2回、日本一1回。日本ハムをしっかり北の大地に根付かせたことを考えても、外国人監督の中でも一番の「勝ち組」と言っていいだろう。

のちの主力を積極起用


オリックス・コリンズ監督


コリンズ監督(オリックス)
2007〜08年途中
評価S
監督通算成績:通算2年193試合83勝105敗5分 勝率.441

 メジャーの監督経験者としては史上2人目のNPB監督となったのが、2007年にオリックスの指揮官に就任したテリー・コリンズである。この07年は広島のブラウン、ロッテのバレンタイン、日本ハムのヒルマンと合わせ、全12球団中、4球団で外国人監督が采配を振るっていたことになる。このころ、日本球界はちょっとした外国人監督ブームになっていた。

 コリンズは、1年目は最下位、2年目は5位で5月に辞任。結果を残すことはできなかったが、坂口智隆大引啓次ら、のちに主力になる若手を積極的に登用した。オリックス退団後は中国代表監督を経て、11年にメッツ監督としてメジャーに復帰。15年には自身初の地区優勝を果たし、ワールド・シリーズに進出している。

日本国籍取得の「日本人監督」


DeNA・ラミレス監督


ラミレス監督(DeNA)
2016年〜
評価B
監督通算成績:通算4年429試合209勝210敗10分 勝率.499(6月14日現在)

 現在の12球団で唯一の外国人監督が、16年からDeNAを率いているアレックス・ラミレスだ。現役時代はヤクルト、巨人、DeNAで活躍し、外国人としては史上初の通算2000安打を達成。名球会にも名を連ねている。

 就任1年目の16年にはDeNAを初のクライマックスシリーズ(CS)に導き、翌17年はリーグ3位からCSを勝ち上がって日本シリーズに進出。しかし、昨年は4位に終わり、初めてCS出場を逃した。

 就任4年目は監督としての真価が問われることになりそうだが、今年1月に日本国籍を取得。ベネズエラ出身で、米国籍以外では初の外国人監督だったが、今シーズンは新たに「日本人監督」として臨む。

写真=BBM
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