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プロ野球1980年代の名選手

中村武志 星野監督の下で戦力外の候補から司令塔へと飛躍/プロ野球1980年代の名選手

 

1980年代。巨人戦テレビ中継が歴代最高を叩き出し、ライバルの阪神はフィーバーに沸き、一方のパ・リーグも西武を中心に新たな時代へと突入しつつあった。時代も昭和から平成へ。激動の時代でもあったが、底抜けに明るい時代でもあった。そんな華やかな10年間に活躍した名選手たちを振り返っていく。

ボロボロのミットとともに中日へ



 いつの時代にも、その時代ごとの物差しがある。その物差しは普遍的なものではない。いまの時代に正しい目盛りを示す物差しだからといって、それは近い将来、早々に不正確なものとなるかもしれないし、その一方で、過去に対して無条件に現在の物差しを思慮分別もなくあてがってみたところで、弾き出された数値には、なんら正確さを期待できないだろう。

 1980年代に現在の物差しをあてがってみると、やはりヘンな時代だったように見えてくる。プロ野球に限らず、指導者という立場には、戦争や、戦後の荒廃期を経験した世代が現役バリバリでいた。戦争は人を狂わせ、その狂気は終戦とともに消え失せるわけではない。指導の場で鉄拳制裁は当たり前だった。指導される側にも、鉄拳制裁を受けたことを誇る空気さえあった。小学校では教員がタバコを吸いながら1メートル定規を振るい、その定規は小学生の尻を叩きすぎたあまり、ささくれだっていた。それで叩かれたことを、小学生は勲章を授かったかのように誇ることもあった。あくまでも一例を挙げたのみだが、どこにでも似た光景はあったはずだ。

 令和の時代に生き残った人間が昭和を振り返ってみても、ヘンな時代だったと思う。暴力を肯定する気はさらさらない。これから紹介するのは、中日で星野仙一監督の鉄拳制裁を受けながらも、それを糧にして司令塔の座に這い上がった中村武志の80年代。あくまでも、古い昔の、ヘンな時代の話だ。

 鉄拳制裁に耐えうる素地はあったのだろう。苦学生は早朝から新聞配達、という定型文が残っていた時代。甲子園出場はなかったが、

「トレーニングのひとつだと思っていました」

 と、新聞配達をしながら京都の花園高での3年間を過ごした。バットやミットを買ったのも、そのときの給料から。無名の存在だったが、84年秋のドラフトで中日から竹田光訓の外れ1位で指名される。中日の司令塔を担う中尾孝義の肩に不安があったことで、遠投120メートルとも言われた強肩を買われての指名だった。翌85年に入団。すでにミットはボロボロで、見かねたコーチが新品を2つ、買ってくれたという。

「中尾さんを目標に頑張ります。お世話になった皆さんに絶対、恩返しします」

投手への“殺し文句”で得た信頼


 だが、無名の高卒ルーキーは、プロの壁に苦しめられる。翌86年オフ、19歳にして、早くも戦力外の候補に名前が挙げられた。だが、時を同じくして星野監督が就任したことが転機となる。星野監督は猛練習を課し、時には殴りまくって、コーチが「これ以上やったら死にます!」と止めに入ったこともあったという。もちろん、実際には星野監督が致命傷を与えるほど殴っていたとは考えにくい。そして、これに耐えた若き捕手は、当時の小学生のように“勲章”と位置づけたのだろう。このとき手にしたのが、のちに、

「なんかあったら、俺が星野監督に殴られてやるから大丈夫!」

 という投手への“殺し文句”だった。決して言い訳せず、常に責任をかぶる男気で投手陣から信頼され、その強肩は遊撃手の宇野勝が「あんな送球、見たことない。手が腫れる」と言ったほど。

 87年に一軍デビュー、翌88年にはベテランの大宮龍男大石友好らのサポートを受けながらではあったが、6月から司令塔の座に定着して、広島の機動力を封じるなどリーグ優勝に貢献した。日本一はならなかったが、優勝旅行では星野監督から「一緒に写真を撮ろう」と言われた。すると星野監督はカメラマンに「コイツのおかげで優勝できたんや」。星野監督の初優勝でもあったが、99年には星野監督2度目の優勝にも貢献。このときは、すでにベテラン。絶対的な司令塔としてチームを支える存在に成長していた。

 この先、このような鉄拳制裁から始まる師弟関係が生まれることはないだろう。ひと言で時代が違うからと大雑把に片づけるつもりもないが、過去を美化するつもりもない。80年代という、そこそこ遠い昔の話だ。

写真=BBM

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週刊ベースボール編集部

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