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プロ野球回顧録

元オリオンズ応援団員が語る東京スタジアムの夢、川崎球場への追憶

 

現在、オリオンズ、マリーンズの歴史をまとめた『1950-2019ロッテ70年史』が発売中だ。東京スタジアムから、流浪の時代を経て、川崎球場へ。そして今に至る千葉・幕張への移転――。そのすべてを見てきた「元応援団員の証言」を掲載しているが、同企画をここに公開する。

川崎球場でプレーするロッテ・落合


下町に現れた夢舞台


 1962年の東京・南千住。まだ戦争の焼け跡も残る下町に、忽然と巨大な野球専用スタジアムが現れた。オリオンズの名物オーナー、大映映画社長の永田雅一が30億円もの巨費と、それ以上の情熱を注いで建設した“夢の球場”東京スタジアム。6月2日、パ・リーグ全6球団が集結した開場式で、永田オーナーは詰めかけたファンに向かって「みなさん、パ・リーグを愛してやってください」と絶叫した。

東京スタジアムのたたずまいは“光の球場”と称された


 現在は日本プロ野球OBクラブに籍を置く横山健一氏は、東京スタジアム開場の翌年、63年の生まれだ。小学2年のときにオリオンズは“夢の球場”から立ち去っている。それでも、野球に、そしてオリオンズの魅力に取りつかれたのは、東京スタジアムがあったから。その記憶は今も鮮やかに脳裏に焼きついている。

「とにかく格好良かったですね。内観も外観も。東京スタジアムは“光の球場”と呼ばれていましたが、周囲の下町の風情とのギャップもあって、そこから照明の光がもれてくると本当に美しかった。今で言うバリアフリーのスロープ塔が4本立っていて、なだらかな1階席とせり出した見やすい2階席。まあ、お客さんが多いわけではなかったので2階席が開放されたのは70年の日本シリーズくらいだったかもしれないですけど。ゴンドラシートが外野の端まであって、イスはプラスチック製で、キャンドルスティック(ろうそく塔)と呼ばれた照明塔があって、フィールドは天然芝。50年以上前のスタジアムですから、もちろん電光掲示板があったりするわけではないですが、今の球場と比べても何ら遜色はない。グラウンドはちょっと狭かったですけど。

 スタンドも独特の雰囲気でね。友達と後楽園へ巨人戦を見に行ったこともありましたが、背広を着た仕事帰りの大人ばかり。でも東京球場は違う。下町のおじさんや子どもたちもたくさん見に来ていて、アットホームで身近な球場。今思うとそんな地域性が感じられた“下町の野球場”でしたね。あのアルトマンが電車で通っていたんですから」

 何もかもが最先端で近代的なスタジアムは、選手たちにも優しかった。当時としては珍しい室内ブルペン、ロッカーは一、三塁側に2つずつあり、選手食堂は「銀座の一流店のよう」と称された。“ミスターロッテ”有藤通世は「4年間しかいなかったけど、“我が家”と呼べるのは東京球場だけ」と振り返り、横山氏は「うちの理事長(八木沢荘壮六日本プロ野球OBクラブ理事長、完全試合を達成した元ロッテ投手)も『あそこではもっと長くやりたかった』って言うんです」と話す。

 開場から8年後の70年には、東京スタジアムで念願のリーグ優勝。グラウンドになだれ込んだファンに胴上げされた永田オーナーは、涙した。

仙台を中心とした“流浪の球団”


第1期金田監督時代は仙台の宮城球場を中心に“流浪”を余儀なくされた


 夢の時間は長くは続かなかった。映画産業は斜陽となり、当時の大映映画は多額の負債を抱えていた。69年にはオリオンズの経営もロッテの協力を仰ぎ、東京スタジアムの経営も困難を極めていた。71年に球団の経営権が完全にロッテに移ると、東京スタジアムも72年限りでの閉鎖が決定。ロッテオリオンズは仙台を中心とした“流浪の球団”となる。

「常磐線に乗れば東京球場は見える。まだそこにあるのに、試合ができない。74年の日本シリーズは後楽園でしたが、東京球場はあったわけです。何だかなあという感じでしたね。その後も、本拠地がまた東京球場に戻るという噂が出たり消えたり。そうこうしているうちに77年に取り壊されてしまいました。今ではどの球団も地域密着を打ち出していますが、ロッテがあのまま東京スタジアムにいたら、きっと東京・下町に根づいたすごく面白い球団になっていたと思いますね。

 それでも仙台への遠征は楽しかったです。まだ中学生とかでしたが、応援団とともに大人も子どもも一緒に好きなチームを応援しに行くわけですから。行くのは大変でしたけどね。まだ新幹線はありませんし、特急で4時間。でも特急なんて乗れないから5時間かかる急行で行ったり、ときにはバスを仕立てたり。選手も大変だったと思いますよ。仙台に住んでいるわけではないですからね。でも土曜にデーゲームをやって、日曜にダブルヘッダーをやることが多かったのは何だったんでしょう。逆ならよかったのに。19時過ぎの夜行に乗らないと東京に帰って来られませんでしたから、ダブルヘッダーの2試合目は最後まで見ることができませんでしたね。

 チームも金田(金田正一)さんが監督になってガラッと変わりました。プロ野球の監督をやりながらテレビにも出ている国民的スター。ユニフォームも変わって、ロッテというチームが日本中に知ってもらえるようになり、人気チームになりました。ロッテだけでなく、パ・リーグに注目が集まるようになった大功労者だと思います。だからこそ、東京スタジアムのままだったら、またさらに違っていたんでしょうね……」

流れ着いた川崎


「古い」「狭い」「ガラガラ」と揶揄された川崎球場だったが不思議な魅力も備えていた


 78年、ロッテは大洋が横浜へ移転して“空き家”となった川崎球場を新たな本拠地とする。76年に王貞治(元巨人)が700号本塁打を放って記念プレートが設置された球場は、ロッテが来てからも、張本勲(元ロッテほか)の3000安打、有藤通世の2000安打、落合博満の三冠王獲得、ロッテと近鉄による「10・19」など数々のドラマの舞台となっていく。だが、古く、狭い。施設の貧弱さはいかんともしがたく、何より、ファンが集まらなかった。金田監督が78年限りでその座を退くと、客足はぱったりと途絶えてしまった。それがゆえに、横山氏は正式に応援団に身を置くこととなる。

「川崎球場には“流浪の時代”に何度か行きましたけど、びっくりしましたね。大洋と巨人の試合などをテレビで見ていると立派に見えたんですけど、実際に行ったら東京球場より狭く感じたし、ものすごく“きれいじゃない”。だからなのか、スタンドもガラガラのすっからかん。極めつきは応援団の人たちも1人とか2人とかしか来なかった。だから『これはもう自分でやるしかない』と応援団に入りました。まだ中学生でしたけどね。

 木のイスは腐っていて打球が当たると穴があくし、湿気がひどくて水はけが悪いからピーカンでも“前日”の雨でグラウンド不良により試合が中止になる。そんなことが起きるのを知っているし、お客さんが少なくて球場の近くまで来てもシーンとしているから、『あれ、中止?』『もしかして日程間違えた?』って、不安になったものです」

 だが、狭いがゆえのグラウンドとの近さ、観客が少ないがゆえの静寂により、ほかでは味わえない野球の魅力を体感できたことも確かだった。当時のロッテは落合博満、リー兄弟、村田兆治をはじめとする個性派がひしめく、魅力的な球団だった。そして、パ・リーグにも球界を代表するような猛者たちがひしめいていた時代でもあった。

「川崎球場はファウルゾーンも狭くて、グラウンドとは近すぎるくらい、近かったですね。一塁コーチなんて金網のすぐ向こうにいるし、打球の音はもちろん、選手たちの声まで聞こえる。川崎に移転してから80、81年と2年連続で前期優勝しましたけど、あの張本さんが二番を打っていたくらいですからね。落合さんも守る場所がなくて二塁を守っていた。とんでもなく打力があるチームでした。リー兄弟も含めて、そんなバッターたちの打球がシュルシュルと地面をはう音まで聞こえました。

 村田さんだけではなく、近鉄の鈴木啓示、阪急の山田久志西武東尾修……各球団のエースのピッチングが間近で見られるんです。なんてぜいたくなんでしょうね。チームは魅力があった。パ・リーグ自体にも魅力があった。それをどの球場よりも間近で見ることができる。それなのに、なんでお客さんがいないのかなって」

手に入れた“我が家”


1992年4月4日の千葉マリン開幕セレモニーで花束を受け取るロッテ・八木沢監督(右)、オリックス・土井監督


 91年、人工芝の敷設や電光掲示板の設置、座席の取り換えなど、段階的に進められていた川崎球場の改修が完了。「テレビじゃ見れない川崎劇場」のキャッチコピーで集客に努めたが、その夏、球団は千葉への移転を正式に発表する。川崎球場は、プロ野球の本拠地としての歴史に幕を下ろした。

「千葉への移転が発表されても、普通なら反対の声が聞こえてきそうなものなのに、『よかったんじゃないの』『ここにいても仕方ないよ』という空気になってしまっていました。個人的にも良いことだと思いましたね。というのも、移転が発表された日に開催された千葉マリンでのロッテと西武の試合で感じた雰囲気が、すごく良かったんです。応援団に対して地元のお客さんが『千葉のチームになるんだろ、応援するからな』と声を掛けてくれて。スタンドでも純粋に野球を楽しんでいる。地元への郷土愛があって、野球が好きなことが伝わってきた。

 東京スタジアムで11年、流浪の時代が5年あって、川崎球場で14年。でも千葉ではもう今年で28年目です。千葉のほうがはるかに長い。そういう意味では、やっと“我が家”が見つかって、応援してくれる人たちが見つかったと言えるのではないでしょうか。ただ、チーム名がオリオンズからマリーンズに変わったことに関しては、泣きました。これからのファンには、2度とそんな思いをさせてほしくありませんね」

 横山氏は86年にロッテに入社し、異動願いを出した末に93年から球団職員として、いかにファンに喜んでもらえるか、マリンを魅力的な球場にして足を運んでもらえるかに尽力してきた。それは東京スタジアムという理想の球場が胸に刻まれ、ファンに魅力を届けることができなかった川崎時代の苦い記憶があったからだろう。ようやく“我が家”を手に入れ、千葉に根を張ったマリーンズは、マリンを舞台にこれからどんな歴史を紡いでいくのだろうか。

写真=BBM
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