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伊原春樹コラム

石毛宏典が西武黄金時代のチームリーダーになった理由は?/伊原春樹コラム

 

月刊誌『ベースボールマガジン』で連載している伊原春樹氏の球界回顧録。6月号では石毛宏典に関してつづってもらった。

四文字熟語を使いながらナインにゲキ


黄金時代の西武をけん引した石毛。類まれなリーダーシップがあった


 私の野球人生で印象に残っている選手の一人が石毛宏典だ。愛称はハチ。駒大、プリンスホテル時代からそう呼ばれていたようだ。由来は分からないが、西武でも自然とハチという愛称になった。ハチは1981年、ドラフト1位で西武入団。1年目の開幕戦からショートでスタメン出場した。79年、福岡から所沢に移転して誕生した西武だが2年間、ショートは選手が入れ代わり立ち代わり務め、固定されなかった。その穴を埋めたのがハチだ。1年目から首位打者争いを演じるなど、打率.311、21本塁打、55打点、25盗塁と好成績をマーク。見事に新人王も獲得した。

 私はハチが入団したときからコーチとなり、二軍守備・走塁コーチ補佐を務めていたが、ハチの動きを目にすることもあった。目を引いたのが走る姿。練習でポールからポールまで走る姿が非常にかっこいいのだ。躍動感にあふれ、強いエネルギーを感じる。まるでサラブレッドのようで、ハチと比較したら自分は駄馬だなと思ったものだ。

 社会人出身だから守備も出来上がっていた。肩も強く、大型ショートとしてダイナミックなプレーでチームを何度も救ってくれた。ゴールデン・グラブ賞も1年目から獲得。84年はチームも優勝を逃し、ゴールデン・グラブを手にすることができなかったが、それ以外のシーズンでは手中に収めた。87年からはサードへ転向したが、そこでも93年まで89、90年以外はゴールデン・グラブ賞を獲った。

 守備力の高さもさることながら、ショートを守りながらチームを引っ張る姿勢を見せていたのが素晴らしかった。84年には辻発彦が入団し、翌年から二塁に定着するようになったが、この二遊間コンビがピンチに陥ると積極的に投手へ声がけしてくれた。投手を冷静にさせたり、勇気づけたり。状況に応じて、うまく対応してくれた。まさに声と体でチームを引っ張ってくれたと思う。

 さらにハチが入団して3、4年が経ったころだろうか。試合前の円陣で声出しも行うようになった。シートノックが終わり、ベンチに戻って、いざ、ゲームに臨もうというとき、ハチはよく四文字熟語を使いながら、ナインにゲキを飛ばした。毎試合、行っていたから、何を言うか考えるのも大変だったかもしれないが、それはそれでハチにとって大きな勉強となったのは間違いないだろう。最後には「さあ、行こう!」と声を張り上げ、チームの士気を高めてくれていた。

アップ後の50メートル走も常に全力でこなす


 言葉でチームをけん引し、姿勢でもナインの手本となっていた。例えば当時、いまのメットライフドームの横に西武第3球場があり、そこで練習前のアップを行っていたが、ハチは絶対に遅れてくることはなかった。早くから姿を現し、黙々と体を動かしていく。私は85年から一軍でコーチを務めるようになったが、アップが終わり、選手の体が出来上がったら最後に必ず50メートル走ダッシュを何本か行うようにしていた。試合でも例えばボテボテの内野ゴロを放ち、内野安打になるかもしれないと全力疾走することがある。そういったときに、普段から全力疾走をしていないと肉離れなどを起こす可能性があるからだ。それを避けるためなのだが、ハチはそこでも手を抜かない。

 こちらもストップウォッチを手にして、タイムを計っているから、さぼっている選手はすぐに分かる。例えば清原和博なんかは気を抜くことがあり、怒られ役となっていたが、とにかくハチに関してはどんなにベテランになろうと、常に全力で野球と向き合っていたことを覚えている。その姿を見ていれば、ほかの選手も自然と些細なことも懸命に取り組むことになる。まさにハチはチームリーダー。その存在があったからこそ、西武も黄金時代を築けたのは間違いない。

 何事にも一生懸命。だから、ハチに雷を落とした記憶はあまりない。そもそも私が選手に求めていたのは、そんなに難しいことではない。「当たり前のことを、当たり前にやってくれ」。その一点だけだ。打者走者になったら全力で走る、守備では絶対にベースカバーに行く、バックアップに入る。それを怠ったときに、厳しく指摘するだけだった。

写真=BBM
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