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“髭のアキオ”が作った今に残るベイスターズの伝統/ホエールズ&ベイスターズ70年企画

 

現在、ホエールズとベイスターズ、70年の歴史をまとめた『1950-2019ホエールズ&ベイスターズ70年の航跡』が発売中だ。同書に球団の選手、関係者の証言で歴史を振り返る「時代の証言者」を掲載しているが、同企画をここに公開する。

100勝&100セーブを達成


遠藤一彦と並び、80年代の球団を支えたタフネス右腕。先発、抑えで存在感を誇った


 球団の歴史において、ただ一人現役として、大洋ホエールズ、横浜大洋ホエールズ、横浜ベイスターズの3時代でユニフォームに袖を通しているのが齊藤明雄だ(当時の登録名は斉藤明雄、明夫)。

 ひと呼んで“髭のアキオ”。

 劣勢を強いられてきた横浜大洋時代、齊藤は、遠藤一彦と並び投手陣の精神的支柱として先発と抑えで活躍した、チームになくてはならない象徴的な選手の一人だった。

 制球力を武器に、ぐいぐいと力のあるストレートで押していくと思えば、スローカーブでバッターを翻弄する器用さを見せ、さらにはマウンド上でのふてぶてしくも堂々とした立ち振る舞い。齊藤は、記憶にも記録にも残る投手として一時代を築いてきた。

 川崎時代最後のドラフト1位選手として入団すると、ルーキーイヤーとなった1977年に8勝を挙げ新人王を獲得。とくに8月30日の巨人戦(後楽園)では本塁打世界記録まであと一本となっていた大注目の王貞治を相手に、ホームランを浴びることなく1安打に抑え、初の完封勝利を収めている。これで齊藤の名は一気に全国に知られることとなった。

 さらに翌1978年の横浜大洋元年、別当薫監督の「若い力と度胸のよさに賭けたい」という思いから、横浜スタジアムの“こけら落とし”で先発の大役を任せられる。巨人打線を向こうに1失点で完投勝利。ハマスタの歴史に第一歩を印した齊藤は、同年16勝15敗4セーブの成績を挙げ、さらに奪三振王を獲得するなど、新生ホエールズのエースとして絶対的な存在となった。

 1980年代に入ると抑えに転身。2度の最優秀救援投手に加え、1982年にはストッパーながら規定投球回数をクリアし、防御率2.07で最優秀防御率のタイトルに輝いた。

 そしてチーム事情で再び先発をやるなどし、右ヒザに爆弾を抱えながらも1988年に史上3人目となる100勝&100セーブを達成。球史にその名を残すに至った。

後輩に示した厳しい姿勢


 しかし齊藤が奮闘してもチームの成績は芳しいものではなかった。

「僕はいつか優勝できると信じていたし、心が折れることは一度もなかった。いろいろ言われたけれど、応援してくれるファンのために手を抜くことはありませんでしたね」

 齊藤は、はっきりと言った。当時、横浜大洋はリーグ最下位になるも、2年連続を喫することはなかった。沈み切らず、意地を見せる。そこにはリーダーとしてバッテリーをまとめていた齊藤のおかげだという声も多い。

「チームの輪を乱す選手がいれば、取り返しのつかないことになりますから、そこは口を酸っぱくして言っていましたね」

 言葉だけではなく、盟友の遠藤とともに誰よりも走り込み、背中を見せた。

「僕は嫌われてもいいと思った。悪いことは悪いと言う。やるべきことをやらず負けて、のほほんとしている選手は許さなかった。やるべきことをやっていれば夜遊びも構わない。けどグラウンドに来たらそういうことは忘れて試合に集中する。まあ僕は鬼軍曹だったけど、半面、若い選手の話を聞いてガス抜きしていたのが遠藤だったんだよね」

 こういったベテランの姿勢は、後に佐々木主浩三浦大輔らに引き継がれ、現在のDeNAにも伝統として息づいていると齊藤はチームを見ていて感じるのだという。

 1993年の横浜ベイスターズ元年、齊藤はついに引退を決意し、17年間の現役生活に幕を閉じる。10月22日の広島戦後には盛大なセレモニーが行われ、ファンは3時代を駆け抜けた功労者である“髭のアキオ”に惜しみない拍手と声援を送った。

 後悔があるとすれば優勝できなかったこと。

「責任を痛感しているし、ファンに対して申し訳なかったなって今でも思うんですよね」

 引退して四半世紀以上、ホエールズを愛した齊藤の心には、今も燻る思いが宿っている。

文=石塚隆 写真=BBM
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