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平成助っ人賛歌

野村克也監督との出会いでジャパニーズ・ドリームを実現させたテリー・ブロス/平成助っ人賛歌【プロ野球死亡遊戯】

 

テストを受けてヤクルトへ


勝利を挙げ、バスの中で野村監督(左)と握手するブロス


 日本人選手選抜の“ジャパン・ドリームズ”vs.助っ人選抜の“フォーリン・ドリームズ”。

 かつて、NPBでそんな夢の球宴前夜祭があった。1995年(平成7年)7月24日、オールスター第1戦前日に福岡ドームで開催された阪神大震災チャリティー・ドリームゲームである。フリオ・フランコロッテ)は2安打2打点、ホームランも放ったイチローオリックス)が両チーム通じて唯一の猛打賞を記録。助っ人チームの捕手は米マイナー・リーグ留学経験のある大久保博元巨人)と、自費で「JOE」のネームが入ったユニフォームを新調した定詰雅彦が務めた。

 試合は助っ人選抜が5対3で勝利し、指揮を執るボビー・バレンタイン監督は「今日のジャパン・ドリームズはメジャーに行っても最強のチームだよ」なんて笑ってみせた。現代の球界でもデスパイネソフトバンク)、レアード(ロッテ)、ブラッシュ楽天)、ソトDeNA)、バレンティンヤクルト)、ビシエド中日)らがずらりと並ぶド迫力助っ人選抜打線を相手に、千賀滉大(ソフトバンク)や菅野智之(巨人)といった侍ジャパンのエース級投手が投げたらかなり盛り上がるのではないだろうか。

 さて、95年のフォーリン・ドリームズの二番手投手としてマウンドへ上がったのが、当時ヤクルトで活躍していたテリー・ブロスである。身長205センチ、体重102キロのテキサス出身の大男はユマキャンプで5日間のテストを受けて合格。年俸40万ドル(約4000万円)と聞いて、「ウソだろう? 信じられない。そんなにもらえるのか」と狂喜する。

 セント・ジョーンズ大学時代はバスケットで全米選手権ベスト4の経歴を持つビッグマンもプロの道は遠く、大学最後の年には足首を骨折。このまま普通にサラリーマンになる前に野球で挑戦してみようとニューヨーク・メッツからドラフト指名を受ける。しかし、カーブがマスターできず変化球を苦手とし、6球団を渡り歩き、大リーグでは通算10試合0勝0敗と芽が出なかった。もう29歳、なんとか野球人生のきっかけをつかもうとヤクルトのテストを受けたわけだ。

外国人投手3人目の快挙も達成


95年9月9日の巨人戦(東京ドーム)でノーヒットノーランを達成


 思ったところにボールが投げられないと舌打ちをして、マウンドの土を蹴り上げた暴れ馬の獲得は賛否あったが、野村克也監督の「磨けば光るで」の見立てどおりに、ブロスは開幕から快進撃を見せる。開幕4連勝で4月月間MVPに輝くエース級の働き。スローボールが投げられずベンチの敬遠を拒否して痛打を浴びるなんて珍プレーもあったが、休養日にはクリスティー夫人と鎌倉やディズニーランドの観光を楽しみ、ウニ丼や納豆が大好物。あだ名は、同僚トーマス・オマリーがアメリカのコメディアンから取った“ジャーキー”。8月の猛暑にも負けずに汗だくでシートノックを受け、チーム内で流行っていた将棋にもチャレンジしてみせた。

 そして、ライバルの長嶋巨人には5勝0敗と無類の強さを発揮し、9月9日の巨人戦(東京ドーム)では外国人投手3人目の快挙となるノーヒットノーランを達成。しかも許した走者は23人目の打者・大森剛に与えた死球のみの準完全試合だった。この年の最優秀バッテリー賞にも選出の平成最強キャッチャー古田敦也という最高の相棒にも恵まれ、150キロ近い直球に日本で覚えた落ちるスライダーを効果的に使い、シーズン2度目の9月月間MVPにも輝いた。

『週刊ベースボール』10月2日号ではノーヒットノーラン記念の特別インタビュー「この大記録を親愛なるボス・野村監督に捧げます!」が掲載。ノーヒットノーラン達成前の広島遠征では、角盈男投手コーチに連れられて、スタミナがつく「すっぽんの卵」を食べたという。もちろん快挙達成の夜は各局のスポーツニュースから出演依頼が殺到。身長205センチのシンデレラボーイは饒舌に語る。

「伸びていたヒゲは、家に帰って最初のテレビ局に向かうまで20〜30分あったから、その間に剃ったんだ。やっぱり、ヤクルトという看板を背負っている以上、みっともない格好はできないからさ(笑)」

「東京ドームのマウンドは足場が堅くしっかりしていて、投げていてもすぐに掘れてこないから、すごくいいね。神宮だとか広島とか、日本の球場というのはマウンドの土がやわらかくて、2、3イニング投げると、足を踏み出すあたりが大きく掘れてきてしまうんだ」

「(試合後ベンチ前でノムさんにオジギしたことについて)やっぱり、野村監督に感謝の気持ちを表したかったんだよ。記録が達成できたのは、野村監督があの試合に使ってくれたからだし、さかのぼれば、今年のユマキャンプでテストを受けたときに合格を出してくれたから、ヤクルトと契約できたんだしね」

 2位広島に8ゲーム差をつけて優勝したヤクルトの救世主となった背番号29は、32試合で14勝5敗、防御率2.33で最優秀防御率のタイトルに輝く。日本シリーズでもイチロー擁するオリックス打線を寄せ付けず、第1戦と第5戦に先発して両試合で勝ち投手に。日本一の原動力となり、優秀選手賞を受賞する。まさに野球人生一発逆転のジャパニーズ・ドリームをつかんだ男。アメリカの自宅の玄関には巨大な野村監督の写真を飾ったという。

驚愕の珍縁かつぎ法


98年から2年間、西武に在籍したが結果を残せず


 ここまでは鮮やかな助っ人サクセスストーリーだが、翌年以降ブロスは徹底的に研究され、成績を落としてしまう。96年、97年と2年連続開幕投手を務めるも、7勝12敗、7勝8敗と負けが先行し、フォークボールやカットボールの習得を目指すが実戦では使いものにならず、あの古田が「リードが難しいよ」と嘆く状態に。打席で空振りした際に左ワキ腹を肉離れするアクシデントにも見舞われてしまう。

 98年は西武ライオンズへ移籍して復活が期待されたが、オープン戦のオリックス戦で仰木彬監督は、ブロス相手に5者連続セーフティーバントのサインを出すゆさぶりをかける。弱点のバント守備を徹底的に突かれ憮然とした表情で、「どんどんやってくれ。アウトを稼げる」なんて強気な発言をするブロスだったが、開幕後は右肩痛で戦線離脱。二軍戦での復帰登板を「投げたくない」と拒否して、東尾修監督を激怒させてしまう。2年契約のため翌99年も残留するが、一軍登板なし。ヤクルト3年間で29勝を挙げたノーヒットノーラン投手は、西武2年間でわずか2勝に終わった。

 来日初年度は恩師ノムさんに「アイツは決してマイナスのことは言わないな。必ず自分を売り込むようなことを言う」と褒められたナイスガイは、新天地の西武に移った途端「去年は野村監督に細かいことを注文されて頭が混乱した。ノイローゼだよ。でも、今年は東尾監督の下で野球を楽しんでいるんだ」なんて元ボスをディスるバッドボーイに。その不安定なメンタルが最後までマウンド上でも響いてしまった。

 最後はブロスが週刊ベースボールのインタビューでカミングアウトした、平成助っ人史に残る驚愕のある珍縁起かつぎ方法を紹介して終わりにしよう。

「実はここだけの話だけどね、縁起かつぎで金カップ用のサポーターを3年間洗ってないんだよ」

文=プロ野球死亡遊戯(中溝康隆) 写真=BBM
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