週刊ベースボールONLINE

伊原春樹コラム

独特の技術を持った黄金時代西武の「二番・右翼」平野謙のすごさとは?/伊原春樹コラム

 

月刊誌『ベースボールマガジン』で連載している伊原春樹氏の球界回顧録。7月号では平野謙に関してつづってもらった。

独立心があり、気持ちが強い


巧みなバント技術で黄金時代の西武で二番打者として活躍した


 1987年、西武は巨人を4勝2敗で下して日本一に輝いたが、外野陣に一抹の不安を抱えていた。センターを守る秋山幸二は盤石だが、両翼の守備に森祇晶監督は物足りなさを感じていたという。そこで指揮官が白羽の矢を立てたのが中日の平野謙だった。謙は85、86年と全試合に出場し、86年には48盗塁でタイトルを獲得。しかし、87年はケガなどもあり、90試合の出場にとどまっていた。大卒10年目の32歳。年齢を重ねていたとはいえ、守備力は高く、チームに足らないところを埋めてくれると森監督は確信していたのだろう。87年、20試合に先発させた小野和幸を交換要員として、88年に謙を迎え入れた。

 謙は中学生になる前に両親を亡くし、6歳上の姉と2人で苦労しながら生活してきたそうだが、だからか非常に独立心の強い選手のように感じた。周囲の輪の中に入って雰囲気を乱すようなことはしないが、一歩引いているようなところがあったように思う。ただ、それがプロでは大きくプラスに作用したのは間違いない。

 怖いものなしの、気持ちの強さもプレーでの支えになった。謙で真っ先に思い出すのは、ある試合のことだ。一塁へ出塁した謙に三塁コーチャーの私は盗塁のサインを出した。だが、二塁でアウト。チェンジとなり、ベンチに戻ると黒江透修ヘッドコーチが謙に聞こえるように「伊原、足がもう衰えているんだから、盗塁のサインを出すな!」と憤激。私もカーッとなったが、それを腹に収め、同じシチュエーションになったら絶対に謙を走らせると決めた。いくら謙の足が全盛期ではないといっても、ミスしたままだと向上心は生まれない。もう1度、盗塁のサインを出すことによって謙に「信頼されているな」という気持ちが生まれ、「さっきよりもいいスタートを切ろう」と積極的になる。失敗した後に成功させると選手というのは生き返るものなのだ。

 そして次の打席、うまい具合に謙が出塁してくれた。相手バッテリーも代わっていなかったが、私は再び盗塁のサインを出した。一塁の謙とアイコンタクトで「絶対に成功させろよ」「見ていてください」という会話を交わして、果敢にスタート。結果はセーフ。二塁ベース上でベンチに向かって「見たか! 俺はまだ衰えていないぞ」という顔を見て、「いい根性をしているな」とあらためて思ったものだ。

セオリーに反して投手前にバント


 謙は78年ドラフト外で投手として中日に入団。1年目にはウエスタンで2勝を挙げた。しかし、翌年外野手へ転向。3年目からスイッチヒッターに挑戦するようになった。25歳になるシーズンから左打者にトライ。普通、プロ入り後にスイッチヒッターに転向して成功するには、高橋慶彦(元広島ほか)や松井稼頭央(元西武ほか)のように、高卒でプロに入り、20歳そこそこから始めるものだ。しかし、謙の場合は20代も中盤から。だいぶ年齢を重ねてからだが、やはり両親を早くに亡くし、育まれてきた強い気持ちがあったからこそ、左打席を自分のものにしたのだろう。

 そのバッティングはとにかく粘り強い。状況に応じた打撃をするし、スタンドインさせる小力もあった。相手からしたら厄介な打者だっただろう。それと、何と言っても謙の場合はバント。二番として確実に送ってくれる姿は非常に頼もしかった。

 90年から辻発彦が一番を務めるようになったが初回、一塁へ出塁したとき、相手投手のクイックが緩い場合は盗塁をさせると森監督に伝えていた。それを謙も承知しているからバントの構えをしながらもサッとバットを引く。ランナー二塁。だが、ここでも謙の役割はバントで発彦を三塁に進めることだった。相手のクイックが速いときは当然、最初から謙はバント。つまり、初回や先頭打者で発彦が一塁へ出塁したらどちらにしろ謙はバントを行っていたのだ。

 そのバント技術も巧みだった。例えば無死一、二塁でバントをする場合、三塁手に打球を捕らせるのがセオリーとされているが、私は打球を確実に殺せるのならば投手前のほうがいいと思っていた。バントシフトで一塁手、三塁手が突っ込んできても、それが意味をなさなくなるからだ。三塁に転がせば打球が切れてファウルになる可能性もある。謙は投手前に、絶妙に打球を殺したバントを行っていた。

 後年、謙がロッテに在籍しているとき、バレンタイン監督に「一、二塁のときは三塁側へバントしろ」と言われ、ひと悶着あったらしい。とにかく西武移籍初年度の88年から5年連続でパ・リーグの犠打王。世界記録を持っている川相昌弘(元巨人ほか)も素晴らしい技術を誇っていたが、謙もそれに引けを取らない技を持っていた。

左足の前ではなく右足の前で捕球


右翼守備は天下一品だった


 右翼の外野守備でも独特の感性を持っていた。まず、ゴロを捕球する際、右投げの場合、左足を前にして捕球するのが正しいとされてきた。だが、謙は打球に対してチャージして、右足を前にして捕っていた。疑問に思って聞いてみると、「僕はこのほうが次のプレーに移りやすいんです」と言う。確かに謙のプレーを見ると普通の外野手が5、6歩ステップするところ、2、3歩のステップで投げていた。そこからコンパクトな投げ方で送球。肩がムチャクチャ強いわけではないが、捕ってからの素早さと確実なコントロールは絶品だった。

 あとは投げる前に走者の動きが見えるという。一、二塁でライト前に安打を運ばれたとき、右翼手は瞬間的に一走を三塁へ進ませないために三塁へ送球するか、間に合うと分かれば三塁を回った二走を刺すために本塁へ送球するか判断しなければならない。しかし、これは簡単なことではない。よく間に合わないのに、本塁へ投げ、一走を三塁まで進めてしまうケースを見かけるはずだ。謙の場合は捕球する前、ランナーの動きがしっかりと目に入って、どちらに投げたほうがベターか判断できたという。確かに、そのあたりは的確だったが、「すごいな」と感心するしかなかった。

 打球判断も抜群。打球を追いかける際、頭がぶれずにフットワーク軽く、最短距離で追いつく。センター・秋山とのコンビネーションも完ぺき。お見合いして、打球を捕れなかったことなどまずなかったと思う。とにかく、ライト・平野、センター・秋山、そしてレフトに笘篠誠治が入れば鉄壁の外野陣だった。謙はプロ野球史上でも屈指の外野手であったことは間違いない。

 そういえば、よくライトゴロも完成させていたな。右打ちが巧みな日本ハム広瀬哲朗が打席に立つと、スルスルスルと前に出る。ライナー性の強い打球が飛んできたとき、それを定位置よりかなり前で捕って、素早く一塁へ送球。ヘッドスライディングしても間に合わずにアウトになり、広瀬が一塁ベース上で手足をバタバタさせて悔しがるシーンが思い出される。

 余談だが、広瀬は非常に気のいい男で、西武球場での試合前練習で、かなり早く、まだ西武が打撃練習をしているときに顔を出す。「広瀬、こっちに来いよ!」と声を掛け、一塁側ベンチに座らせると「ここにから見ると、本当に西武はすごく強く見えますね」と言っていたのが思い出される。ライトゴロを食らった次の日には、「謙さん、お願いしますよ!」。まあ、本当に明るい男だった。

 謙は94年にロッテへ移籍し、96年限りで現役引退。その後、ロッテ、日本ハム、中日などで指導者を務めていたが2015年からはBCリーグ群馬でコーチとなり、16年から監督を務めている。同年、独立リーグ日本一となり、昨年も四国IL香川を倒して、2年ぶりの2度目の頂点に輝いた。

 若い選手に情熱を傾けて指導に当たっているのだろう。これからも野球界のために力を尽くしてもらいたい。

写真=BBM
週刊ベースボール編集部

週刊ベースボール編集部

週刊ベースボール編集部が今注目の選手、出来事をお届け

関連情報

みんなのコメント

  • 新着順
  • いいね順

新着 野球コラム

アクセス数ランキング

注目数ランキング