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平成助っ人賛歌

阪神のオマリーが、移籍先に同リーグのヤクルトを選んだ理由とは?/平成助っ人賛歌【プロ野球死亡遊戯】

 

当初はイケメンの顔のみ注目も


阪神で人気者だったオマリー


「君は野茂を見たか!?」

 そんな野球応援コミックが掲載された『週刊ヤングジャンプ』1991年(平成3年)4月18日号では表紙にパ・リーグ6球団のマスコットイラストと「燃えろ!’91プロ野球」というタイトルが踊り、なんと一冊220円にもかかわらず、セ・パ公式戦チケット165組330名プレゼント企画を実施した渾身のプロ野球開幕特集が組まれている。

 前年、ルーキーながらも投手8冠を独占した野茂英雄(近鉄)と落合博満中日)のオールスター戦での対決を取り上げた読み切り漫画に加え、保存版「’91プロ野球大名鑑」を12球団分掲載。当時スキャンダルの渦中にいた桑田真澄巨人)へのインタビューでは「人生はお金じゃあないですよ……」なんて際どい発言を引き出し、巻頭カラーページの新生ブルーウェーブ誕生秘話ではグリーンスタジアム神戸が「バックネット裏最上段に観戦レストラン、男性DJの登場で日本初のエンターテインメント・スタジアム」と紹介されている。

 さらにロッテを人気球団にしようというテーマで「ロッテオリオンズ大改造計画」をアイドル高橋由美子が担当。しかもその内容が「いつかドームでコンサートをやってみたいという由美子ちゃん、川崎球場をドームに!!」とか、「M・C・ハマーより楽しそう金田監督のカネやんダンスを復活!!」と今なら炎上必至の攻めた方向性で、ダメ押しのように由美子ちゃんが始球式をする川崎球場での試合に30名をご招待&年間を通して内野席無料のロッテ球友会会員権も30名にプレゼントとやたらと気前のいいバブリーな雰囲気だ。好景気はすでにピークを過ぎていたが、プロ野球と雑誌の黄金時代だからこそ実現した超大型コラボ企画である。

 さて、その新戦力分析のカラーグラビアで紹介される新助っ人選手のひとりが、阪神のトーマス・オマリーである。しかも寸評は「守備ははっきり言って上手いが、バッティングは非力だ」と最低の総合評価Cがつけられている。若手時代はサンフランシスコ・ジャイアンツでレギュラー起用され年間100安打以上放ったシーズンもあったが、6球団を渡り歩き通算13本塁打と伸び悩み、30歳での日本行き。今となっては信じられないが、野球の実力よりロバート・レッドフォード似のイケメンばかりが注目されての来日だった。阪神関係者も「彼は独身だし、女性ファンの歓迎会をやったら面白いだろうね」なんて人気先行の売り出し計画を披露。同僚のマーベル・ウインの方がメジャー経験も豊富で、中村勝広監督からは期待されていたのである。

安定感のあるバッティングを披露


確かな打撃技術で阪神をけん引した


 だが、1年目からオマリーは安定感のある打撃で結果を残す。背番号1にトレードマークのサイズの合わない小さすぎるヘルメットはご愛嬌、5位大洋に16ゲーム差とぶっちぎりの最下位に沈んだチームにおいて、ひとり気を吐く130試合フル出場で打率.307、21本塁打、81打点の好成績。

 2年目の92年シーズンは大洋から移籍してきたジム・パチョレックとともにOP砲を結成し、打率.325のハイアベレージに最高出塁率(.460)のタイトルと三塁でゴールデングラブ賞も獲得。ラッキーゾーンが撤去され広くなった甲子園で亀山努新庄剛志といった若手も台頭し、最後まで熾烈な優勝争いを繰り広げてみせた。翌93年は打率.329で首位打者と最高出塁率(.427)に加え、オールスター第2戦でMVPに輝き、お立ち台での「阪神ファンはイチバンや〜!」ってハルク・ホーガンばりの決めゼリフが話題に。

 ちなみに『週刊ベースボール』のパンチョ伊東のインタビューシリーズ『助っ人見聞録』でも、オマリーは甲子園の大声援に「ウン、はじめは信じられなかったなあ。こんなに熱狂的に声援を送ってくれる人たちは、世界中を探したって、ほかにはいないよ。とにかく我が阪神に対して、いつまでも忠実に応援してくれるし、熱心だし、第一、これほどエネルギッシュな応援なんてあるわけないじゃないか」と感謝を示した。94年も打率.314に3年連続の最高出塁率(.429)と結果を残したが、阪神フロントはこの人気も実力も併せ持った超優良助っ人に対して思いきった行動に出る。オマリーのオリックスへの金銭トレード計画である。

 週ベ94年11月7日号には「トラ党の支持率と180度異なる内部評価。金銭でオリックス移籍内定」という記事が掲載され、実は現場はグラウンド内外で使い分ける表情の違いに振り回され、あるベテラン選手の「今までいろんな外国人選手と付き合ってきたけど、あれだけ愛想の悪い男は初めてや」という証言もあるほどで、新外国人選手に自分と仲のいい野手を推薦してきたり、監督の三塁起用法を「ヒザが痛い」から断ることもあったという。

 この姿に「ヤンチャ坊主がそのまま大人になったような……」なんて久万俊二郎オーナーも苦笑い。2億円を越える高額年俸もネックとなり、9月末から数回に渡り、三好一彦球団社長と中村監督のトップ会談で球団の方向性を確認。10月17日早朝、FAXで正式に来季は契約を結ばない通知を伝達した。同時にパ・リーグへの限定放出も内定し、金銭トレードでオリックスへの譲渡が決定的となった。

強いセ・リーグ志向


95年は阪神からヤクルトにチームを変えてプレー


 しかし、だ。オマリー本人には強いセ・リーグ志向があり、このプランを拒否(代理人はあの辣腕アーン・テレム氏)。阪神から「オリックスとの入団交渉を最優先してもらいたい」と要望がくるも、阪神の保有期限が切れ、希望通り自由契約公示された12月に「オレにはセ各球団の投手のクセ熟知という宝物がある。試合のために移動していく町にも慣れている。これを無駄にする手はないだろう」と年俸1億7500万円でヤクルトと契約を結ぶわけだ。

 しかも、野村克也監督は相手の投球データを細かく分析して打席に立ち、右投手用の黒バット(880〜890グラム)と左投手用の白バット(890〜900グラム)を器用に使い分ける阪神時代のオマリーを「12球団で最高の助っ人」と度々評価しており、本人も「ノムラさんはいつもオレの打撃を崩そうとしていた。その人が味方になって、こんなに嬉しいことはない」と互いに相思相愛での入団となった。

 いつの時代も転職の成功は、新しいボスとの相性が運命を分ける。ノムさんは阪神でワガママ男と言われた助っ人に対してキャンプでは特別扱いせず接し、新背番号3がナインに交じって5000メートル走もこなす姿に周囲は驚く。すると95年4月11日のシーズン本拠地初戦、狭い神宮球場で打撃スタイルを変え、新生オマリーはいきなりチーム12年ぶりの3打席連続本塁打をかっ飛ばす。ノムさんも「ワシがキャッチャーでも抑えられんよ」なんて最大級の賛辞。4月末の古巣・阪神との甲子園三連戦でも3試合連発を披露し、かつては神戸の高級マンションにメイドまでつける要求を球団にしていた男が、新天地では同僚外国人選手たちと同じマンションに住み、リーダー役として大好きなビールも断ち、序盤から首位を走るチームに貢献した。

 7月の遠征では遅刻したオマリーに対し、ノムさんは移動日休日をとりやめ練習指令。アメとムチを使い分け緊張感を保ち、終わってみれば独走優勝で、打率.302、31本塁打、87打点で4度目の最高出塁率(.429)とセ・リーグMVPを獲得。因縁のオリックスとの日本シリーズ(31年ぶりの全試合ナイター開催)でも小林宏との14球の名勝負が話題となり、17打数9安打、打率.529の大暴れで初出場のイチローから主役の座を奪い、シーズンとダブルMVPの快挙を達成する。受賞コメントでは「この賞はチームのみんなにあげたい。ただ優勝したチームだから、今の体制は変えなくていい、という気持ちが強い」なんて同僚外国人の残留に援護射撃。これには野村監督も「オマリーは親分肌だな」と苦笑いしたという。

高年俸と高年齢がネックで


95年のヤクルト日本一に貢献した


 原辰徳の現役引退写真が表紙の週べ95年10月23日号では優勝記念スペシャルインタビューが掲載。野村監督や東京、さらに古巣・阪神に対する想いまでご機嫌に語り倒している。

「それにしても、ボクは去年、阪神を解雇されて、今年ヤクルトに拾われた。その年に阪神に20勝6敗と大きく勝ち越して優勝できた……。なんか映画のシナリオみたいじゃないか。そしてボクが映画の主人公。やっぱり優勝はいいもんだよね」

「東京は外国人も多くて国際色豊かな都市だから、暮らしやすいんだよ。阪神のときは神戸に住んでいたけど、甲子園球場に行くにも遠かったし、気晴らしに遊びに行くにも不便だった。でも今年から住んでいる家は神宮球場にも近いし、息抜きする場所もたくさんある。リラックスできて野球に専念できる環境だったんだよね」

「ボクはね、阪神にいる頃から、野村さんを尊敬していたんだ。野球は9人で戦うけど、我がスワローズは野村さんを含めて10人で戦っているから有利なんだよね。いつもよく話をして冗談も言ってくるし、時にはスランプから抜け出すヒントもアドバイスしてくれるんだ」

 名将との出会いにも恵まれ野球人生の絶頂にいたオマリーは、翌96年も打率.315、18本塁打、97打点の好成績を残すが、ここでも高年俸と36歳の年齢がネックとなり、シーズン終了後にまさかの解雇。直後の『週刊ポスト』独占インタビューでは「野村さんは最後のゲームのあと、来年もまた会おうって言ったんだぜ」と嘆きつつ、「次の監督を探していた阪神でプレイング・マネージャーをやらないか? って話が来ていたんだよ」と驚愕の事実を告白。結局、帰国後にレンジャーズとマイナー契約をするも契約解除され、その後は度々日本で現役復帰が噂されるも実現することはなかった。

 通算3119打席で打率.315(この数字は同時代に3年連続首位打者と活躍した中日のアロンゾ・パウエルの通算打率.313を上回る)のハイアベレージを残し、来日から6年連続3割、4年連続最高出塁、95年シーズンと日本シリーズのMVPダブル受賞と記録にも記憶にも残った名助っ人だ。

 当時のオマリー人気を証明するエピソードとして、まさかのCD発売を敢行。『オマリーのダイナミック・イングリッシュ』収録のお気楽でド下手な六甲おろしは、1番の日本語バージョンに加え、2番の英語バージョンも驚愕の音程の外し方で、やがて伝説に。あまりの音痴さに聞く側に勇気と希望を与えるわけの分からなさで20年後の2014年に復刻版が再販され、歌手・星野源がラジオ番組で紹介するほどカルト的な人気を誇ったのである。
 
文=プロ野球死亡遊戯(中溝康隆) 写真=BBM
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