プロ野球が産声を上げ、当初は“職業野球”と蔑まれながらも、やがて人気スポーツとして不動の地位を獲得した20世紀。躍動した男たちの姿を通して、その軌跡を振り返る。 18歳の整理対象選手
「近鉄で(1968年に)背番号を3にしたときから、いつか追い抜き、追い越すことが目標だった。もちろん、追い抜いたからといって、尊敬とあこがれが消えることはありません」
こう喜びを語ったのは、80年5月7日の阪急戦(
西武)で通算445本目の本塁打を放った西武の土井正博だ。もちろん、追い抜き、追い越そうと挑み続けた男とは、
巨人で背番号3を背負い、通算444本塁打で現役を引退した
長嶋茂雄。翌81年に引退するまで465本塁打を積み上げることになるが、大砲というよりは長嶋と同じ中距離ヒッターで、それでいて典型的、いや、すさまじいばかりのプルヒッターだった。右翼席へ入った本塁打は、わずか3本と言われている。だからといって三振か本塁打かというタイプでもない。通算777三振を喫しているが、打数に対する三振率は.089。400本塁打を超えた選手では、プロ野球記録の通算3085安打を残した
張本勲(東映ほか)に次ぐ数字だ。
近鉄2年目の62年にオープン戦で抜擢され“18歳の四番打者”として注目を集めたが、その直前は“18歳の整理対象選手”、つまりクビの候補になっていた。1歳のときに父親が戦死。大鉄高2年生の春にセンバツ出場、自らの失策もあって初戦で敗退したが、近鉄の
根本陸夫スカウトから「学校は中退して、すぐプロに来ないか」と誘われる。
「家計が苦しいのは分かっていた。母親に黙って1人で球団事務所に行きサインしました」
背番号は51。1年目から二軍で強打の片鱗を見せたが、かつて巨人で背番号3を着けていた
千葉茂監督がコンパクトなスイングを求めていたことで評価されず、整理対象の候補に入ってしまう。だが、直後に千葉が退任し、戦後の1リーグ時代に
阪神で本塁打を量産した
別当薫監督となったことで運命が一転。再契約となると、オープン戦で四番に起用されるなど期待を受ける。
一軍の壁は高かったが、別当監督が辛抱強く使い続けたことで、着実に力をつけていった。67年には張本と首位打者を争い、リーグ2位の打率.323。長嶋や
王貞治(巨人)をしのぐ両リーグ最多得票で球宴にも選出された。人気がなかったパ・リーグで低迷する近鉄から、V9巨人の“ON”をファン投票で上回ったことからも、その人気が分かる。そして第1戦(神宮)では球宴記録となる6打点、
金田正一(巨人)から2本塁打を放ってMVPに輝き、ファンの期待に応えた。
71年には
岩本堯監督が就任。岩本監督と早大の同期で、王の師匠でもある
荒川博から「もっと外角球を踏み込んで打ったらどうか」とアドバイスを受ける。
太平洋で“無冠の帝王”を返上も……
大きくリラックスして構え、尻を投手にぶつけるイメージでフルスイング。これで体が開くのを抑えると、ステップする前足も爪先が投手に真っすぐ向くように踏み出す。その前足は親指のふくらんだ部分で着地。すべてのパワーをバットに伝え、ボールを左翼席へと運んだ。最終的には自己最多の40本塁打、113打点と一気に数字を伸ばしたが、1本塁打、7打点の差でタイトルを逃す。いつしか“無冠の帝王”が代名詞となっていた。
74年オフ、世代交代が進む近鉄から太平洋へ。移籍1年目から34本塁打を放って、ついに本塁打王のタイトルに輝く。
「ようやく1つ。これで楽になるんじゃないかな。まだまだ狙いますよ」
だが、76年に右足アキレス腱痛を発症、それをかばううちに左足を痛め、さらに腰痛も……。満身創痍となりながらも、77年には通算2000安打に到達、翌78年には6試合連続本塁打もあってDHのベストナインに。球団がクラウン、そして西武になってからも、主軸として活躍を続けた。
引退後は解説者を経て西武の打撃コーチに。背番号3の後継者で、やはり18歳で四番打者となった
清原和博も教え子の1人だ。他にも
松井稼頭央、
中島裕之、
中村剛也、
栗山巧、
秋山翔吾……。その手腕への評価は高い。
写真=BBM