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プロ野球20世紀の男たち

中西太「フルスイングの“源流”」/プロ野球20世紀の男たち

 

プロ野球が産声を上げ、当初は“職業野球”と蔑まれながらも、やがて人気スポーツとして不動の地位を獲得した20世紀。躍動した男たちの姿を通して、その軌跡を振り返る。

弾丸ライナーで打撃2冠4度の“怪童”


西鉄・中西太


 ジャンプすれば内野手でも手が届きそうなライナーだった。だが、すさまじい打球スピードもあって、惜しくも届かず。なんとかバウンドするために捕ろうと、外野手は前進してくる。だが、打球はライナーのまま、その外野手の頭上をも超えて、外野席へと飛び込んでいった。1952年のオープン戦。西鉄黄金時代に打線の主軸を担った中西太の、伝説の幕開けだった。

 高松一高では“怪童”と言われた。幼少期は野菜の行商をしていた母の手ひとつで育てられ、

「なすびのヘタ剥きをしているとき、ナイフで指をザクッと切ったことがある。あれで指が落ちとったら野球はできんかったかもしれんね」

 打席では、その左の人さし指に当てものをしながらのフルスイングだったが、

「あれで、グリップで指1本を遊ばせたら、うまく力が抜けて、手首を柔らかく使えた」

 すさまじいスイングスピードから生み出される、すさまじいスピードの打球。弾丸ライナーは高校時代からで、プロ2年目の53年にはライナーのまま場外本塁打になったこともあった。腕の短さをカバーするため、そして遠心力を利用するため、重くて長いバットを使って、

「輪ゴムをギリギリまで引っ張ってパチンと当てるイメージやね。球をしっかり引きつけ、下半身の力を使いながら、シャープに振り抜く」

 1年目の52年に新人王、翌53年には本塁打王、打点王の打撃2冠に輝いた。ついに三冠王には届かなかったが、打撃2冠は4度を数える。本塁打王は53年からの4年連続を含む5度。その53年は36本塁打、リーグ2位の打率.314に加えて36盗塁もマークして、

「トリプルスリーじゃ(笑)。足は速かったからね。でも『三番、四番を打つんだったら、ケガするからムリな盗塁はやめなさい』と、(西鉄の監督だった)三原(脩)さんに言われて、その後は控えた。オリックスのコーチをしているとき、イチローに『ワシも若いときは、お前と同じくらい速かったんや』と言ったけど、信じてくれん。(コーチ時代のように)ずっと肥えてたわけやない、昔は痩せとったんじゃ、って(笑)」

 80年代のファンからは想像しにくいが、50年代にパ・リーグで黄金時代を謳歌していたのは南海だった。その牙城を崩したのが西鉄だ。56年から58年まではリーグ3連覇、日本シリーズでも3年連続で巨人を破って、新たに黄金時代を築いた。56年は3度目の打撃2冠でMVP、58年にも打撃2冠に輝いたが、

「ワシの選手人生は(昭和)33年で終いや。あとは、おまけやね。左手首の腱鞘炎になって。骨が欠けていたらしいよ。それじゃあ、いくら温泉に入っても仕方がなかったな(笑)。今の医学なら治るんやろうけど、これも人生や」

打撃コーチは“お遍路”と同じ


 62年からは監督を兼任。翌63年は最大14.5ゲーム差を逆転して西鉄をリーグ優勝に導いた。69年オフに監督を退任し、現役も引退。ただ、もしかすると、そこからが真骨頂なのかもしれない。打撃コーチとして手腕を発揮し、プロ野球界に大きく貢献していく。

「38歳でヤクルトのコーチになって、弱いところから3年ずつ回ろうと思った。西鉄の最後に(“黒い霧事件”で)お騒がせしたから、お詫びじゃよ。ワシは四国だから、お遍路の旅じゃな。いつの間にか8球団も数えてた」

 近鉄では87年に中日の二軍から緊急補強されたブライアントを長距離砲として開花させ、のちのヤクルトでは臨時コーチとして岩村明憲に技術だけでなく“何苦楚魂”も注入。これは現役時代、自身が三原監督に伝授されたものでもある。その教え子は洋の東西を問わない。

「コーチは手伝うだけなんや。一緒に汗を流して、泥にまみれてやらんと。一緒に苦労して、気づくのを待つ。現役の選手や監督、コーチに教え子がたくさんおって、時々、こんな爺さんに『教えに来てくれ』と声をかけてくれる。ほんと、幸せな男だと思うよ」

 と振り返る一方で、こうも語った。

「ワシは今もダルビッシュ(有。現カブス)と対決してる夢を見るからな。どうやって打とうかと悩むんや。野球は奥深いよ」

写真=BBM

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