昨年、創刊60周年を迎えた『週刊ベースボール』。現在、(平日だけ)1日に1冊ずつバックナンバーを紹介する連載を進行中。いつまで続くかは担当者の健康と気力、さらには読者の皆さんの反応次第。できれば末永くお付き合いいただきたい。 真相は藪の中?
今回は(今回も)『1968年10月7日号』。定価は60円。
1968年9月17日からの阪神─巨人4連戦(甲子園)からの第2弾だ。
前回は阪神の2年目左腕・
江夏豊が巨人・
王貞治から“狙って”の日本新の奪三振記録をつくり、かつ自らのバットでサヨナラ勝ちした17日のゲームを紹介した。
これで阪神は、7月4日時点で10ゲーム差あった首位巨人との差を1ゲームとした。
翌18日はダブルヘッダーだ。
まず初戦は阪神の先発・
村山実と巨人・
堀内恒夫の投げ合いとなったが、0対0で来た9回裏、阪神の捕手・
辻佳紀(ヒゲ辻)が堀内からサヨナラ2ラン。ゲーム差もなくなった。
2試合続けての名勝負、しかも阪神の連続サヨナラ勝ちに、甲子園のボルテージも上がっていたが、この日の第2試合がとんでもない展開となった。
先発バッキーの乱調で、阪神劣勢で迎えた4回表だった。
バッキーが巨人・王に投じた2球目が1球目に続けて、王をのけぞらせる球となる。
王はバットを持ったままマウンドに向かい、バッキーと何やら言葉を交わすが、このとき巨人ベンチから
荒川博コーチがバッキーに向かって猛ダッシュ。勢いのままに蹴りを入れようとした荒川に対し、バッキーが右パンチを繰り出し、頭部付近に当たった。
そこからは両軍入り混じっての大乱闘だ。
あとでバッキーは、
「ボクが2球目を投げた後、王が歩いてきた。なんですか? って聞いたら、危ないじゃないのバッキー、気をつけてくれ、と言ったのよ。だから僕は(捕手の)サインどおりインコースに投げただけといったのよ。そしたらオーさんは、OK、と言って分かってくれた。ところが、巨人のコーチ(荒川)が走ってきて、いきなりボクのことを蹴飛ばした。ボク、しようがないからパンチで防いだんだ。守るためには、仕方がないね。
32番(滝)、35番(千田)もボクのことひどく殴った。オーが納得してくれたのに、なんで巨人ベンチからあんなにいっぱい来て、ボクをいじめたのか分からない。ホント、クレージーだよ」
と話していた。
一方、荒川は、
「王がバッキーのほうへ歩み寄ったとき、いきなり千田(
千田啓介)が走っていった。それでこれはいかん、止めようと思って止めに入ったんだ。ところがバッキーは何を勘違いしたか、いきなり殴りかかってきやがった」
という。
これで荒川は前頭部裂傷、バッキーは全治2カ月の右手親指骨折となった。
特にバッキーは痛い。
巨漢のバッキーに対し、突っ込んだ荒川を無謀と思うかもしれないが、荒川は合気道の有段者。当時は「荒川は本気にならなかったのが、バッキーには幸運だった」とも言われた。
こう書くと、荒川がハッタリ屋のように思うかもしれないが、当連載担当者が、20年ほど前、生前の荒川を取材した際、
「好きなように押してみなさい」
と言われて(やりたくなかったが)やってみたが、まったく動かなかった。
シーズン復帰絶望となったバッキーはさらに続ける。
「十年間野球をやってきて、こんなことは初めて。悲しい、とても。もう嫌。それに日本のプロ野球はひどい。ボクの投げるインコースの球全部、ビーンボールにする。アメリカじゃあんなことない。ボク、どこに球を投げたらいいのか」
結局、荒川、バッキーの退場で20分後試合が再開されたが、今度はバッキーに代わった
権藤正利が王の頭部へ死球。そのまま頭を押さえて倒れ込んだ。
巨人・
金田正一の、
「わざとやったんだろう」
の声を合図に再び乱闘がスタート。客席からも次々乱入者があった。
ちょっと長くなってきたので、この試合の記事、あしたに続きます。
では、また。
<次回に続く>
写真=BBM