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プロ野球20世紀の男たち

佐々木主浩「“大魔神”が自由自在に操ったフォークの極意」/プロ野球20世紀の男たち

 

プロ野球が産声を上げ、当初は“職業野球”と蔑まれながらも、やがて人気スポーツとして不動の地位を獲得した20世紀。躍動した男たちの姿を通して、その軌跡を振り返る。

横浜の1998年



 1950年、2リーグ分立の際に参加した大洋。最初の拠点は山口県の下関にあり、川崎を経て横浜へ移転したのが78年のことだった。93年からは球団名を横浜と変更。愛称もホエールズからベイスターズとなった。現在のDeNAだ。その長い歴史において、優勝も日本一も2度ずつしかない。これは現在の12球団で、21世紀に誕生した楽天を除けば、圧倒的に少ない回数だ。

 横浜へ移転してきたときから弱いチームであり、その後も低迷を続ける。春先は好調でも、やっぱり失速し、案の定、Bクラスの定位置に。そんなチームだからこそ暖かく見守るような雰囲気も、名物でもある夜霧のように横浜にはたちこめていた。それが98年、リーグ優勝、そして日本一。38年ぶりの快挙、いや、奇跡だった。

 その立役者となったのが、“大魔神”と呼ばれた絶対的クローザー、佐々木主浩。この98年の安定感は防御率0.64と群を抜く。打者はバットに当てることさえままならなかった。212人の打者と対決して被本塁打1。150キロを超える速球とフォークボールは、打者を圧倒するどころか、あきらめさせたといっていい。むしろ、そのフォークと格闘したのは味方の捕手で、当初は同期入団で体ごと止める秋元宏作と好んでバッテリーを組んでいたが、これに奮起したのが谷繁元信。のちに通算試合出場でプロ野球の頂点に立つ捕手が礎を築いている。

 3歳のとき、父にビニールのバットとボールを買ってもらったのが野球との出合いだったという。東北高では2年の夏から3季連続で甲子園に出場。当時の球種はストレートとカーブのみで、すでに持病の腰痛とも闘いながらのマウンドだった。プロからも誘われたが、腰痛や両親の希望もあって地元の東北福祉大へ。腰痛が快方に向かったのが3年の春。フォークを身につけたこともあり、通算では無傷の11勝、防御率0.39という数字を残している。

 ただ、まだ腰の不安は残っており、社会人のヤマハへ進むつもりだったが、大洋が強行指名。ドラフト1位で90年に入団すると、2年目の91年にクローザーとして17セーブ、防御率2.00をマークする。規定投球回にも迫っており、

「もう少し投げさせてください、って言ったけど、投げさせてもらえなかった(笑)」

 と、最優秀防御率のタイトルには届かなかった。

 大洋ラストイヤーとなった92年に初タイトルの最優秀救援投手。95年から98年は4年連続でセーブ王、最優秀救援投手に。横浜が2位に浮上した97年も防御率0.90という安定感だったが、迎えた98年は、さらに進化する。就任したばかりの権藤博監督がセットアッパーにもローテーションを組み、最後の1イニングだけを投げる必勝パターンを確立したことも追い風となり、自身のルーティンも完成する。

大魔神に変身するための儀式


 試合の前に必ずプリンを食べる、というのは、たぶんオマケ。7回からブルペンに入り、カーブに始まり、ストレートを8球、10球目でフォークを投げて、肩を作った。その10球目は登板のタイミングに合わせて全力で投げ込み、試合への気持ちを入れていったという。

 そのフォークは、一般的なツーシームではなく、フォーシームで挟み、手首を固定せずストレートを投げるときのようにスナップを効かせて投げ込むことで、球速も140キロを超えた。握りも試行錯誤の結果、人さし指を縫い目にかけ、薬指と小指を中指の下に添えるものに。

「人さし指と中指で挟む力より、小指の力が重要。小指の力が薬指、中指、人さし指と伝わっていき、リリースのときに、しっかりとボールにプレッシャーがかかる」

 と、自ら解説する。この高速フォークの他にも、カウントを稼ぐために、リリースの瞬間に手首のスナップを抑えて球の回転を減らすことで、球速は落ちるが、高めのボールゾーンからストライクゾーンへ落ちていくフォーク、縫い目にかけた人さし指と中指の力を加減してシュート、あるいはスライダーのように左右へ曲がるフォークなども投げ分けた。

 これらは、すべて独学で、とにかく1球でも多くフォークを投げることで感覚を身につけたものだという。

写真=BBM
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