週刊ベースボールONLINE

プロ野球20世紀の男たち

スタルヒン「ロシアに生まれ日本で育った右腕の記憶と記録」/プロ野球20世紀の男たち

 

プロ野球が産声を上げ、当初は“職業野球”と蔑まれながらも、やがて人気スポーツとして不動の地位を獲得した20世紀。躍動した男たちの姿を通して、その軌跡を振り返る。

「2階から投げ下ろす」制球難の剛速球



 ロシアで生まれたロシア人であり、日本で育った日本人であり、そして、そのどちらでもなかった。言葉は日本語しか話せなかったが、生涯、日本国籍は取得せず、無国籍のままだったともいう。彼を知る人は口をそろえる。いつも、おどけていた。ジョークばかり言っていた。だけど時々、なんとも言えない寂しい表情をした、と。青い目に191センチの長身。1934年に日米野球のため結成された全日本チームに参加して、そのまま巨人へ入団したスタルヒンだ。

 帝政時代のロシア。ヨーロッパとアジアの境界線とされるウラル山脈の南に位置する町で生まれた。父はタバコ会社に勤務しながら2件のレストランを経営していたという。ロシア革命の後、白系ロシア人の特権階級は仕事を奪われ、その“末席”近くにいたスタルヒン一家も追われるように故郷を離れ、東へ向かって転々。9歳のとき、日本の北海道、旭川へ流れ着く。

 旭川中で本格的に野球を始めた。17歳のときには、すでに身長は190センチ近くに伸び、エースとして頭角を現していく。だが、いつも北海道大会の決勝で敗れ、甲子園には届かなかった。なお、記録では33年の夏から兵庫県の甲陽中に在籍していたことになっている。父親が殺人事件で服役していたことに関係しているようだが、詳細は不明だ。旭川で母と2人だけの生活をしていたとき、全日本チームの選手を集めていた秋山元男が勧誘に訪れる。来年こそ甲子園と盛り上がっていた旭川中の関係者は猛反発。そして、エースの姿は忽然と消える。34年、日米野球が開催される直前のことだ。

 その姿が再び現れたのは34年11月29日。日米野球のマウンドだった。日米野球の主催者で読売新聞社長、警視庁OBでもある正力松太郎が、父親の殺人事件をネタに国外強制退去をチラつかせたとも、単に読売新聞が提示した契約金にひかれたとも言われるが、これも詳細は不明。いずれにしても、18歳の青年は日米野球の第17戦の3番手として初登板、1イニングを無安打無失点に抑えたが、あまりの制球の悪さに、歴戦の大リーガーたちが打つことよりも逃げることを優先した結果でもあった。

 そして、そのまま大日本東京野球倶楽部、のちの巨人へ入団する。のちの「紳士たれ」という巨人と違い、当時はクセモノぞろい。繊細な若者は、彼らの言葉に傷つくことも多かった。そんなとき励ましたのが、36年に就任した藤本定義監督。「沢村(栄治)以上の投手になりたいと思わんか。だったら、そんなこと気にするな」。そんな藤本監督を父のように慕うようになると、ヒョロヒョロと細かった若者は、巨人の猛練習で下半身も安定するようになり、みるみる制球も良くなっていく。もともとの能力が高いだけに、もう手がつけられなくなった。

戦時中は「須田博」として


 角度のある剛速球を武器に37年の春から5シーズン連続で最多勝。39年の42勝はプロ野球タイ記録として残るが、全96試合のうち68試合に投げまくって記録したものだ。

 だが、戦局は悪化。翌40年9月には球団の勧めで「須田博」を名乗ることになる。なお、これを戦後になって迎合主義と批判する向きもあったが、まったくの的はずれだ。見た目が違う、生まれた場所が違うというだけで、常に憲兵から見張られ、一般の人からも敵意を向けられる中、野球を続けることが最優先だった。

 44年に日本からプロ野球が消えると、軽井沢の外国人収容キャンプに軟禁され、そこで終戦を迎えた。プロ野球が再開される動きが始まっても復帰せず、進駐軍の仕事を手伝っていたとき、偶然、藤本と再会。そして、はにかむように、

「僕は藤本さんと一緒なら野球をやりたい」

 と言ったという。戦前と比べて太ってはいたが、子どものような目は変わらなかった。

 その後は藤本とともにチームを転々。藤本から「そう長く選手はできんじゃろう。高橋は契約金をくれるそうだから、もらっておけ」と言われ、54年に新球団の高橋へ移籍して、翌55年オフに引退。通算303勝は当時のプロ野球記録だった。だが、57年、旭川中の同窓会へ向かう途中、交通事故死。まだ40歳だった。

写真=BBM
週刊ベースボール編集部

週刊ベースボール編集部

週刊ベースボール編集部が今注目の選手、出来事をお届け

関連情報

みんなのコメント

  • 新着順
  • いいね順

新着 野球コラム

アクセス数ランキング

注目数ランキング