週刊ベースボールONLINE

プロ野球20世紀の男たち

藤田元司&堀内恒夫「巨人の背番号18をリレーした悲運のエースとV9のエース」/プロ野球20世紀の男たち

 

プロ野球が産声を上げ、当初は“職業野球”と蔑まれながらも、やがて人気スポーツとして不動の地位を獲得した20世紀。躍動した男たちの姿を通して、その軌跡を振り返る。

ともに1年目は背番号21



 2019年、5年ぶりにセ・リーグの頂点に立った巨人にあって、3度の離脱がありながらも2ケタ勝利に到達した菅野智之の背番号18。多くのチームでエースナンバーとされている背番号だが、その印象が最も強いのは巨人だろう。

 初代は創設メンバーの前川八郎で、伝説的なエースでもある沢村栄治との二枚看板でも活躍したが、内野手の“二刀流”でもあった。1シーズン制となって左腕の中尾輝三(碩志)が継承。戦後は中日や大洋などの監督としても知られる近藤貞雄が着けた時期もあったが、ふたたび中尾が背負って2リーグ時代に巨人ひと筋の投手としては初めて通算200勝に到達した。

 その背番号18の後継者となったのが藤田元司。藤田が引退して、その18番を継承したのが堀内恒夫だ。前川は巨人を退団してから滝川中で別所昭(毅彦)、青田昇ら、のちに巨人で活躍する選手を育てたことでも知られる人物だが、中尾が前川の18番を着けたときは、エースナンバーとして継承したとは考えにくい。ただ、中尾の背番号18を2年目の藤田が受け継ぎ、その背番号18を2年目の堀内が託されたときには、すでにエースナンバーとしての印象は確立されていたといえる。藤田も堀内も、ともに1年目は背番号21。同じ右のエースでもあるが、そのキャリアは似ているようで、対照的でもある。

 藤田は慶大から日本石油を経て57年に巨人へ。慶大では4年の秋、早慶戦で、最後の最後に決勝本塁打を浴びて“悲運のエース”といわれたが、その異名はプロになってからも同様だった。1年目から17勝を挙げて新人王、2年目の58年は29勝、翌59年は27勝で最多勝に輝いて2年連続MVP。前人未到のV5にあって、その立役者となる。“悲運”に見舞われたのは日本シリーズだ。

 50年代の後半、パ・リーグでは西鉄が黄金時代を築き、その前半に黄金時代を謳歌していた南海が逆襲を期していた。58年は西鉄の稲尾和久と、59年は南海の杉浦忠との壮絶な投げ合いとなる。58年は稲尾と同様、6試合に登板して、防御率1.09と稲尾をしのぐ安定感だったが、1勝2敗。翌59年は肩痛で最後まで調子が上がらず、2年連続で日本一に届かなかった。その翌60年からは肩痛が悪化。63年からはコーチ兼任となり、翌64年が最後の登板になった。

 藤田が現役を引退した65年オフ、甲府商高から第1回のドラフト1位で入団してきたのが堀内だ。18歳とは思えない言動で“悪太郎”の異名を取った堀内は開幕13連勝を含む16勝、防御率1.39で最優秀防御率に輝き、新人王と沢村賞もダブル受賞。その66年は巨人V9の2年目だ。翌67年にはノーヒットノーランを達成した試合で3打席連続本塁打。空前絶後の黄金時代にあって、新たなエースとして成長していく。

ONの間で輝いた選手の堀内、監督の藤田


 80年に通算200勝に到達した堀内も、82年からコーチ兼任に。83年の引退試合では最終打席で本塁打を放つなど、堀内らしい派手なフィナーレを飾った。このときの監督が藤田だ。堀内は72年、自己最多の26勝で最多勝に輝いてV8に貢献してMVPになっているが、これはV9の期間中、王貞治長嶋茂雄の“ON”以外では唯一のMVPだった。

 一方、日本一に届かず退任した長嶋監督の後を受け、やはり日本一のないまま退任することになる王監督の間で、巨人を日本一に導いたのが藤田監督だった。就任1年目の81年には王助監督、牧野茂ヘッドコーチの“トロイカ体制”で、江川卓や新人の原辰徳ら充実した戦力を機能させてV9以来の日本一に。83年に監督の座を王に禅譲。王監督が退任したときにも後任となり、やはり就任1年目の89年には日本一に巨人を導いた。

 これは自身が成し遂げて以来8年ぶりの日本一でもある。そして92年オフ、今度は長嶋監督にバトンを託した。ちなみに、堀内も21世紀に入って巨人の監督を務めたが、対照的に結果を残せず、2年で退任している。

 藤田が昇華させ、堀内が不動のものにした巨人のエースナンバー18。桑田真澄杉内俊哉を経て、菅野の背中で一層の輝きを放てるか。

写真=BBM
週刊ベースボール編集部

週刊ベースボール編集部

週刊ベースボール編集部が今注目の選手、出来事をお届け

関連情報

みんなのコメント

  • 新着順
  • いいね順

新着 野球コラム

アクセス数ランキング

注目数ランキング