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プロ野球20世紀の男たち

池永正明「天才エースの未来を奪った“黒い霧”」/プロ野球20世紀の男たち

 

プロ野球が産声を上げ、当初は“職業野球”と蔑まれながらも、やがて人気スポーツとして不動の地位を獲得した20世紀。躍動した男たちの姿を通して、その軌跡を振り返る。

勝ち星は金田に匹敵するハイペース


西鉄・池永正明


 巨人がV9という空前絶後の黄金時代をスタートさせた1965年に、西鉄へ入団した池永正明。西鉄は56年からリーグ3連覇、そして日本シリーズでは3年連続で巨人を破って日本一に輝き、黄金時代を謳歌していたが、その後の優勝は63年のみで、日本シリーズでは巨人に敗れて日本一はならず。黄金時代は過去の栄光となりつつあった時期にあって、その新人の入団は、復活への希望でもあった。

「父ちゃん泣かんでいいやないね。やったばい」

 下関商高の2年生エースとして63年のセンバツ優勝。ヒーローインタビューで、スタンドで感激の涙を流していた父親とイヤホンで話した16歳は、落ち着き払っていた。1年生の秋からエースとなり、大きなドロップが武器。すでに投手として完成されていた。2年生の夏は左肩を脱臼しながらも準優勝。翌64年、最後のセンバツは初戦で、夏は県大会で敗退したものの、その名は忘れられることはなく、プロの大争奪戦となる。

 当時の高卒選手としては破格の5000万円という契約で西鉄へ。同期には、その64年センバツ優勝投手の尾崎正司がいたが、3年で退団している。なぜなら「池永に野球では勝てない。違う世界で勝負しよう」と思ったから。違う世界とは、ゴルフ。のちのジャンボ尾崎の証言だ。尾崎は「我がライバルは池永だけだ」とも語り、同業の青木功や中嶋常幸らはライバルと思ったことがないという。

 尾崎にプロ野球をあきらめさせた右腕は、1年目から新人とは思えない度胸満点、闘争心を前面に出した強気の投球を見せる。身長175センチと大柄ではないものの、バネの効いた、弾むような独特なフォームは豪快。抜群の制球力をバックボーンに、キレのあるストレートと変化の大きなカーブ、スライダーを巧みなコンビネーションで内外角へと投げ分けた。そして、開幕から先発に定着して20勝。高卒の新人では先輩の稲尾和久に続く快挙で新人王に輝いた。

 執拗に打者の胸元を攻め続ける強心臓は最大の武器。3年目の67年にはリーグ最多の16与死球も、23勝で初の最多勝。翌68年にも23勝を挙げて、その翌69年には通算100勝に、わずか1勝で届かず。ただ、これは5年で139勝の稲尾ほどではないものの、50年代に現役をスタートさせて5年で100勝を挙げた国鉄の金田正一に匹敵するハイペース。のちに近鉄の鈴木啓示が並んだが、この時点では、現在から振り返れば、通算300勝、いや400勝の可能性もあったことになる。ただ、その野球人生は、唐突にピリオドが打たれた。

「どうせなら私が最後でいいでしょ」


 69年10月、いわゆる“黒い霧事件”が勃発。チームメートの投手が公式戦で八百長を行ったことに端を発し、次々にプロ野球選手と反社会勢力の関わりが明らかになっていった事件だが、このとき、西鉄で八百長に関わったと疑われた6選手の中に、このエースの名もあった。

「どうしてなんですか。俺はやっとらん!」

 思わず、こう叫んだという。先輩に八百長を頼まれたが断り、それでも「これを預かってもらわんとワシの命が危ない」と言われて、やむなく金を預かっただけで、それも返していた。だが、その証言は認められず、翌70年5月、実際に八百長を行った2選手と同様、永久追放に。一罰百戒、つまり見せしめとして、その中で最も知名度が高かったエースに厳しい処分を下したとも言われたが、いずれにしても、この裁定によって若きエースの未来が断たれたと同時に、西鉄というチームの命運も事実上、終わったと言える。

 ちなみに、同様に「すぐに金を返さなかった」だけの船田和英は70年シーズンの出場停止、同じく基満男は厳重注意処分にとどまり、船田は移籍したヤクルトで78年の優勝、日本一に貢献し、基は職人肌のチームプレーで低迷する大洋を支え続けている。

 ただ、稲尾ら西鉄OBやファンによる復権の署名活動も始まった。だが、それが実を結んだのは21世紀に入ってからだった。高卒1年目で20勝を挙げた最後の投手でもあるが、

「どうせなら私が最後でいいでしょ」

 伝説に終わった怪腕は、こう言って笑った。

写真=BBM
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