プロ野球が産声を上げ、当初は“職業野球”と蔑まれながらも、やがて人気スポーツとして不動の地位を獲得した20世紀。躍動した男たちの姿を通して、その軌跡を振り返る。 たった2人の快挙
21世紀に始まった両リーグの交流戦が定着した現在、交流戦で全12球団から白星を挙げることは、もちろん快挙には違いないが、交流戦がなかった20世紀の昔に比べて、達成のハードルは格段に下がったと言える。最低条件として、まず両リーグで少なくとも別の2チームずつに在籍しなければならない。つまり、3度の移籍を経験する必要がある。
FAで主力の移籍も盛んになった近年こそ薄れてきてはいるが、移籍には“戦力外”という印象も少なからず残っていた時代。チームを渡り歩き、ユニフォームや背番号を変えながら12球団から勝ち星を奪った投手は、20世紀では2人しかいない。ちなみに、完全試合を達成した投手は15人だから、その難易度で比較するのはナンセンスだが、稀少性でいえば完全試合をも凌駕する。
栄えある“第1号”は野村収。平塚農高までは無名の存在だったが、駒大で台頭、ドラフト1位で69年に大洋へ。なかなか芽が出ず、それでも
ヤクルトから3勝、阪神と
広島から1勝ずつを挙げて、72年に
ロッテへ移籍、いきなり14勝を挙げてブレークした。在籍2年でパ・リーグ5チームから勝ち星を挙げて
日本ハムへ。古巣のロッテに強く、4年の在籍で、他のパ・リーグ5球団に対して最多の10勝を挙げる。これで11球団からの勝利。だが、78年に移籍したのはプロのキャリアをスタートさせた大洋。これで快挙が遠くなる。
それでも移籍1年目の78年に17勝で初の最多勝に輝き、カムバック賞も贈られた。そして、82年オフに4度目の移籍。同じセ・リーグの阪神で、またしても移籍1年目から2ケタ12勝、そのうち5月15日の大洋戦(甲子園)で挙げた白星が、プロ野球で初めての快挙となった。オーソドックスな投球フォームで淡々と投げ続けた右腕で、
「チームが勝ってくれればいい」(野村)
と、初の快挙にも淡々としていた。
完全試合も66年に大洋の
佐々木吉郎が達成した11日後に西鉄の
田中勉が達成したことがあったが、続くときは続くものなのかもしれない。野村と同じ83年、3カ月半ほどの時間差はあるが、長い歴史で見れば僅差で“第2号”となったのは、野村に快挙を献上した大洋にいた
古賀正明。野村と同様、ドラフト1位で指名されて76年に太平洋へ。“ジャンボ”と呼ばれた長身から投げ下ろすストレートを武器に1年目から11勝を挙げて新人王も争ったが、どうしても近鉄にだけは勝てず。79年にロッテへ移籍すると、近鉄からも白星を挙げて、ロッテでの最終登板で
西武となっていた古巣にも勝って、パ・リーグを制覇する。
1年で
巨人へ、また1年で大洋へ移籍したが、巨人では大洋、広島、
中日、ヤクルトに勝利し、大洋1年目の81年に阪神にも勝利。だが、なかなか古巣の巨人には勝てず。83年4月にはリードを維持してマウンドを託した
五月女豊も打ち込まれて“第1号”を逃したこともあった。10月4日の巨人戦(横浜)に先発して、ようやく“第2号”に。野村の通算121勝の一方で、古賀は通算38勝。稀少性では別格といえるだろう。
“ヘディング事件”の片隅で
全球団から本塁打を放つのも最低条件は同じ。20世紀には3人だけで、三冠王よりも少ない。“第1号”の
江藤慎一については紹介した。“第2号”は富田勝。法大では、のち広島の
山本浩司(浩二)、阪神と西武で主砲となった
田淵幸一らと“三羽ガラス”と言われたが、プロでは首脳陣との衝突も多く、チームを転々。それでも少ないチャンスで結果を残し続け、4チーム目の中日に移籍した81年に達成。有名な
宇野勝の“ヘディング事件”もあった8月26日の巨人戦(後楽園)でのことだった。
“第3号”の
加藤英司(秀司)については阪急黄金時代を紹介した際に触れたが、達成したのは86年、4チーム目の巨人で。1年で移籍した5チーム目の南海で、通算2000安打にも到達している。
ちなみに、21世紀に入って交流戦が始まる前に12球団からの白星を達成したのが
武田一浩。日本ハムで91年に最優秀救援、ダイエーで98年に最多勝となった気迫あふれる右腕だが、中日を経て2002年に移籍した巨人で達成している。
写真=BBM