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平成助っ人賛歌

いてまえ打線でローズとコンビを組み、首位打者争いでイチローを脅かした男クラーク/平成助っ人賛歌【プロ野球死亡遊戯】

 

20代の終わりに大阪行きを決意


近鉄・クラーク


 1995年(平成7年)11月23日、マイクロソフトからWindows95の日本語版が発売された。

 テレビでは秋葉原での発売カウントダウンの様子が映し出され、『こち亀』でパソコンネタが一気に増え、今となっては信じられないがネットカフェというPCが並ぶ喫茶店ができたらしいとニュースになったりしていた。まさにインターネット元年だ。これまで深夜に野球速報を知りたければダイヤルQ2速報に電話をかけて、3分あたり約210円を払い試合結果を聞いていたのが、徐々に自宅のパソコンからネットで確認できるようになる(といってもデスクトップパソコンはまだ25万円近くする高額商品だったが……)。同年にあの野茂英雄がメジャー・リーグのドジャースへ入団。新人王に輝くトルネード旋風を巻き起こしたが、その遠かった海の向こうの大リーグ情報も自宅からリアルタイムで追うことが可能に。“Windows95”と“NOMO”の登場は、野球ファンにも大きな影響を与えたわけだ。

 さて、その野茂と入れ替わるように近鉄バファローズへやって来たのが、96年に入団したタフィ・ローズである。メジャー時代に開幕戦でドワイト・グッデンから1試合3ホーマーしたこともあり、のちにNPBで4度のホームランキングに輝く平成を代表するスラッガーも来日当初は俊足で鳴らし、97年には22盗塁をマーク。まだ20代と若く身体は細く引き締まり、開業したばかりの広い大阪ドームでトリプルスリーを狙える助っ人と言われていた。お立ち台では当時の佐々木恭介監督の代名詞「ヨッシャー!」を絶叫し、95年限りで退団のラルフ・ブライアントに代わる人気者に。通算464本塁打は歴代外国人選手トップで、2001年に年間55本塁打(王貞治と並び当時の最多タイ記録)を放った背番号20は今でも語り継がれる名選手だが、このローズと同時期に近鉄のいてまえ打線を引っ張った、もうひとりの外国人選手を覚えているだろうか?

 フィル・クラークである。ローズと同い年の68年テキサス州クロケット生まれ。高校時代は強打の全米ナンバーワン捕手で知られ、86年ドラフトでデトロイト・タイガースに1位指名(全体18番目)された有望株だった。ちなみに長兄のジェラルドも94年にヤクルトでプレー、すぐ上の兄イサイアもマイナー・リーグでプロ経験があり、クラーク3兄弟は地元では有名だったという。あの野茂とバッテリーを組み日本でもCMに出演するほどの人気を誇ったマイク・ピアーザとは同い年の打てるキャッチャーで、若手時代はトレド(タイガースの3A)のクラーク、アルバカーキ(ドジャースの3A)のピアーザと注目を集めた。

 しかし、クラークは守備面に課題があり、89年には捕手のプレー中に右ヒザを痛め、次第に外野と一塁起用が多くなる。パドレスに移籍した93年にはトニー・グウィンに代わりライトを守り、打率.313、9本塁打と結果を残すが、ヒザの故障以来、走塁面や外野守備に不安を持つ右打ちの中距離ヒッターということもあり、レギュラー定着はならず。そんなマイナーと行き来するエレベーター生活を変えようと、97年、20代の終わりに日本の大阪行きを決断する。


「この男なら、イチローに勝てるんじゃないか」


90年代後半のいてまえ打線をローズ(右)とともにけん引したクラーク


 春季キャンプから佐々木監督が「新外国人はいいぞ。あれは絶対打つ。リストが柔らかいし、変化球打ちもうまい。外国人選手はまずパワー先行のイメージも強いけど、クラークはうまさが目につく。日本の野球に慣れれば、ローズに負けない成績を残すんじゃないかな」なんて絶賛。就任直後の95年秋に突っ込みどころ満載の紅白フンドシ(どこで売ってるんだろう?)を身につけ、ドラフト会議で7球団競合の福留孝介(PL学園)を「ヨッシャー!」の絶叫とともに引き当てるも入団拒否。そんな逸材を逃した傷心のボスの目の前に現れたのが、かつてアメリカで将来を嘱望された強打の元捕手だった。

 クラークは序盤こそ変化球攻めに戸惑い併殺打を重ねるが、ビデオでパ・リーグ投手を徹底的に研究し、7月には月間打率.392をマークすると、三番・右翼ローズ、四番・DHもしくは一塁クラークの打順が定着。夏場は24試合連続安打と凄まじい勢いでヒットを積み重ね、打率も急上昇。ベストテンの10位台から2位までごぼう抜きすると、やがてマスコミは騒ぎだす。もしかしたら「この男なら、イチローに勝てるんじゃないか」と。

 当時のパ・リーグはイチローの全盛期。94年に210安打で打率.385というハイアベレージを残し首位打者に輝いて以来、オリックスの若きスーパースターは2位以下を大きく引き離してのタイトルが定番になっていた。94年の打率ランキングは1位イチロー.385、2位カズ山本.317。95年は1位イチロー.342、2位堀幸一.309(この年リーグに3割打者は4人のみ)。96年は1位イチロー.356、2位片岡篤史.315(安打数も1位イチロー193安打、2位堀幸一145安打の大差)。そんな“イチロー、一強時代”に突如出現したのが、クラークだった。

『週刊ベースボール』97年10月13日号では『イチローを脅かすフィル・クラークという男』特集が組まれ、見出しは「“舶来の落合”がイチローを猛追する」。背番号25は9月23日の西武戦で5打数4安打の打率.339にまで引き上げ、1位イチローに6厘差まで肉薄。安打数は9月28日にトップで並び、9月月間MVPを獲得。そんな助っ人の素顔は、ローズが阿倍野駅前のTSUTAYAでナチュラルにおネエちゃんをナンパする姿を度々目撃されたのとは対照的に、いたって真面目だという。通訳も「クラークほど手のかからない外国人選手は初めて。本当におとなしい好人物で、遠征先でも一人、ダンベルに汗を流しているくらいだからね」なんてベタ褒め。15歳年上のソニア夫人との間には連れ子も含め5人の子どもがいるが、単身赴任生活は高級住宅街ではなく下町風情が色濃く残る天王寺周辺のマンションに住み、「好物は焼そば」と笑う庶民派助っ人だ。

「ジャパニーズ・ヌードルは手軽に食べられておいしいよね。コンビニで手軽に手に入るし、日本に来て一番気に入っている食べ物さ」

平成最初の三冠王に最も近い男と言われたが…


シュアなバッティングは大きなインパクトを残した


 最終的に97年のクラークは打率.331、174安打で、イチローの打率.345、185安打にはわずかに及ばず。しかし、翌98年は135試合、打率.320、31本塁打、114打点、OPS.971(打率は3位、本塁打と打点は2位)という素晴らしい成績を残す。8月には10本塁打に加え、月間35打点のリーグタイ記録、前年に続き9月は月間MVPを獲得。年間二塁打48は当時の日本新記録だった。98年の週ベでは「来日2年目、しかも30歳と若くこれからの活躍でバース、マニエル、ブーマーら日本助っ人史上に名前を残す名選手の仲間入りをすることも十分可能だ」とまで書かれている。平成最初の三冠王に最も近い男と言われたのもこの頃だ。

 年俸1億4400万円にまで上昇した翌年も3年連続ベストナインを受賞(97、98年は一塁手。99年は指名打者部門)。3シーズンで欠場わずか1試合というタフさも売りだった。しかし4年目の2000年、春先から左肩の故障に悩まされ、7月には不運にも死球を受け右前腕尺骨骨折してしまい、思いのほか重症でそのままオフに退団。翌01年に近鉄最後の優勝を果たすことになるが、90年代後半にクラークやローズの後ろを打ちノビノビ育ったのが、当時若手の中村紀洋だ。

 なお、98年にキャリア初のホームラン王と打点王に輝いた松井秀喜巨人)はセ・リーグ1位の長打率.563をマークしたが、この年のクラークの長打率.593はそれを上回り12球団トップ。イチローとゴジラ松井が主役を張った平成球界、そんな全盛期の彼らと最前線でしのぎを削った助っ人スラッガーがフィル・クラークだったのである。

文=プロ野球死亡遊戯(中溝康隆) 写真=BBM
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