プロ野球が産声を上げ、当初は“職業野球”と蔑まれながらも、やがて人気スポーツとして不動の地位を獲得した20世紀。躍動した男たちの姿を通して、その軌跡を振り返る。 最優秀救援をリレーした赤堀と大塚
“猛牛打線”から“いてまえ打線”へ。昭和から平成にかけて暴れ回った近鉄の強力打線については紹介した。打線の迫力にとどまらず、個々のキャラクターでもインパクトを残した男たちだ。一方の投手陣は、通算300勝を超えた左腕の
鈴木啓示から、強烈すぎるキャラクターのエースが君臨することで、どうしてもほかの投手たちは印象が薄くなるという傾向が続いたように見える。
1980年代の後半には同じく左腕の
阿波野秀幸が旋風を巻き起こしたが、鈴木とは対照的にスマートなエース。90年代に入って登場した
野茂英雄は、のちにメジャーをも席捲するなどインパクトでも他を圧倒した。ただ、鈴木や阿波野、野茂だけが孤軍奮闘していたチームでもない。特に分業化も進んだ90年代の投手陣は魅力あふれる顔ぶれだった。
80年代には左腕の
石本貴昭、
ヤクルトから移籍してきた
鈴木康二朗や、そのヤクルトへ移籍していった
吉井理人がクローザーを務めた時期もあったが、時期が短かったこともあり、絶対的というイメージにはつながらない。だが、90年に2年目の赤堀元之が頭角を現すと、快速球と2種類のスライダーを武器に92年にはクローザーに定着、11勝22セーブで最優秀救援投手に輝き、終盤には先発のマウンドにも立って、規定投球回にも到達して防御率1.80で最優秀防御率にも。以降、プロ野球で初めて3年連続で最優秀救援投手となるなど、絶対的な存在へと成長していった。
95年はタイトルを逃したが、翌96年には最年少26歳55日で通算100セーブに到達し、以降2年連続で最優秀救援投手に。だが、98年に右肩の故障で離脱。新たにクローザーとなったのが
大塚晶文だった。パ・リーグ新記録となる35セーブをマークして、最優秀救援のタイトルでも赤堀の後継者に。気迫あふれる投球が持ち味で、打者を打ち取って「ヨッシャー!」と叫ぶことから、“ヨッシャー魔神”とも呼ばれた。
90年代はセットアッパーも強烈だった。基本はセットポジションなのだが、ある試合で久々に振りかぶったところ、手が帽子のツバに当たって独特の頭部が露わに……。薄い髪と濃いキャラクター(?)で記憶に残るのが
佐野重樹だ。その“ピッカリ投法”は、さすがに公式戦ではなかったが、東西対抗などでは何度も披露する“持ちネタ”に。一方、公式戦ではピンチでもポーカーフェース、制球力の良さとマウンド度胸で勝負した本格派だった。
無冠の右腕、最多勝の左腕
一方の先発陣では、“鈴木2世”と期待された左腕の
小野和義が91年に12勝でカムバック賞。右腕でサイドスローの
佐々木修も、その91年に初の2ケタ10勝を挙げている。新人ながら88年、いわゆる“10.19”ダブルヘッダー第2試合(川崎)に先発し、翌89年には
ブライアントの4連発もあった
西武とのダブルヘッダー第1試合(西武)にも先発した右腕の
高柳出己は、91年から2年連続で規定投球回に到達も、2ケタ勝利には届かなかった。
88年に13勝、94年に6年ぶり2ケタ12勝を挙げた右腕が
山崎慎太郎。粘りの投球で“ミスター・フルカウント”とも呼ばれ、翌95年には開幕投手を任されてチーム最多の10勝を挙げている。続く96年から3年連続で開幕投手を務めたのが
高村祐。1年目の92年から13勝で新人王に輝いた右腕だ。1年目の97年から10勝、リーグ2位の防御率2.82をマークしたのが右腕の
岡本晃。右ヒジ手術を経て、セットアッパーとして最後のリーグ優勝に貢献した姿も印象に残る。
その97年に15勝で最多勝に輝き、ついに才能を開花させたのが左腕の小池秀郎。90年のドラフトで野茂と並ぶ8球団が競合し、
ロッテ入団を拒否、あらためて93年に近鉄へ入団も、なかなか芽が出なかった。2000年に
中日へ移籍、02年に復帰してサイドスローに転向し、セットアッパーとして復活している。
20世紀の最後、2000年には
岩隈久志も入団。翌01年には21世紀の“初代”パ・リーグ王者にもなり、さらにドラマチックな新時代が始まったと思われたのだが……。
写真=BBM