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プロ野球20世紀の男たち

沢村栄治「最初にして最強……エースの“遺言”」/プロ野球20世紀の男たち

 

プロ野球が産声を上げ、当初は“職業野球”と蔑まれながらも、やがて人気スポーツとして不動の地位を獲得した20世紀。躍動した男たちの姿を通して、その軌跡を振り返る。

「オタイはボールを投げるんや」



 もし明日、伊勢神宮へ初詣に行く人がいて、さらにプロ野球のファンならば、すこし寄り道をしてみてもいいかもしれない。プロ野球の幕開けを彩った選手で、もっとも語り継がれている右腕が生まれ育った場所は近い。沢村栄治。21世紀の現在まで続くプロ野球に残したものは多くはないが、その生き様から、われわれは彼について想像することはできる。そこから得るものはプロ野球、そして野球界にとどまらない。

 宇治山田の駅前に立つ像のように、左足を上げる豪快なフォームから、史上最速とも評される快速球を投げ込んだ。古今、快速球がファンを魅了するのは変わらない。20世紀をさかのぼっていくと、近鉄から海を渡った野茂英雄、巨人の後輩にあたる江川卓らの快速球は印象的だ。巨人のV9が途絶えると、新たに黄金時代を謳歌した阪急で、山口高志の快速球が日本シリーズの頂上決戦で巨人を相手に猛威を振るった。そんな潮流の原点にいて、戦前のファンを魅了した右腕も、快速球に魅了された1人だったのかもしれない。

 少年期は体が弱かったという。それを心配した父に、なかば強制的に野球をやらされた。明倫小4年のとき、近くの厚生小との試合を見た後、思い詰めたような顔で、父に向かって、こう言い切った。

「オタイ(俺)はボールを投げるんや」

 その後は暇さえあれば炭で的を書いた壁に向かって、やがて1学年の下で近所にいた山口千万石を捕手にして、ボールを投げるように。全国少年野球大会での投球が注目され、山口とともに京都商へ進んだ。甲子園への出場は3度。そして34年に中退、日米野球のために結成された全日本チームへ参加する。対する全米選抜はベーブ・ルース(ヤンキース)らを擁し、ほとんど一方的な展開で全18試合に18連勝と全日本を圧倒した。

 唯一の例外が、11月20日、静岡は草薙球場での一戦。このとき先発したのが弱冠17歳の右腕だった。快速球とドロップが冴えわたり、ルー・ゲーリック(ヤンキース)の本塁打による1失点のみに抑える快投。これは全米にも“スクールボーイ”と報じられたが、それ以上に、日本中が沸いた。もともと日米野球は職業野球、つまりプロ野球の立ち上げをにらんでのものだったが、この快挙で、その機運が一気に高まったのは間違いないだろう。

「皆んな夢のようです」


 全日本チームは大日本東京野球倶楽部となり、そして巨人というプロ野球で最初の球団となっていくのだが、その間、35年の第1次アメリカ遠征で21勝8敗1分、国内巡業では22勝1敗、翌36年の第2次アメリカ遠征では11勝11敗と、すさまじい勢いで投げまくった。ただ、のちに「もっとも速かったのは全日本チーム時代」と言われたように、この時期が最盛期だったのかもしれない。それでも、その36年の夏からプロ野球の公式戦に参加した巨人にあって、その快速球は猛威を振るった。ちなみに、いつも前述したような投球フォームから投げていたわけではなく、打者を幻惑するため、そしてファンサービスでもあったという。

 プロ野球で最初のノーヒットノーラン、2度の最多勝に最多奪三振、最優秀防御率こそ1度のみだったが、ノーヒットノーランは通算3度の達成。ライバルのタイガース、のちの阪神が、その打倒に燃えたことが、ますますプロ野球を盛り上げていった。だが、38年に最初の応召。マラリアに苦しみ、左の掌を銃弾で撃ち抜かれ、手榴弾を投げて肩を痛めた。41年に2度目の応召。43年に復帰したときには、快速球も、滝のような落差があった“懸河のドロップ”も奪われていた。オフに解雇。最後の舞台はマウンドではなく、代打での登場で、三邪飛だった。

 解雇されたことは最後まで家族に言わず、

「野球やれんのだったら一生、職工でいい」

 と軍需工場で働いた。そして44年、3度目の応召。筆まめで、戦地から多くの手紙を知人へ書き送り、その中に、こんな言葉があった。

「時々塹壕の中でアメリカ遠征などを思い出します。皆んな夢のようです」

 乗り組んでいた輸送船が魚雷を受け沈没。遺骨も遺品もない。12月2日のことだという。

写真=BBM
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