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怪物・江川、突然の引退/1980年代回顧シリーズ第3弾(1987年編)

 

1980年代を1年ごとに特集していくシリーズ。1月29日発売の第3回は1987年編だ。西武巨人が優勝を飾ったシーズンだが、西武が日本一を決めた直後、11月12日、巨人・江川卓が突然引退を発表した。リーグ優勝を飾り、しかも自身は13勝5敗と結果も出していた。決断は、あまりにも唐突に思われた。記事の一部を抜粋し、紹介する

不器用な美学に殉じて


1987年編表紙



 怪物の異名は、作新学院高時代からだ。そのストレートはプロも含めて史上最速とも言われ、打者がファウルしただけでどよめきが起こった。

 法大を経て巨人入りを目指すもドラフト制度もあってかなわず、78年は浪人。この時点では江川の“夢”を応援する声が多かった。
 悲劇の主人公が一転悪役になったのは、待ちに待っていたはずの78年秋ドラフト会議の1日前だ。「空白の1日」と称したルール破りの強攻策で、日本中からバッシングを受けた。

 以後の流れを詳しく追うと長くなる。
 事実だけを書けば、巨人がボイコットした翌日のドラフト会議で阪神が1位指名で交渉権獲得。キャンプ前に阪神に入団(契約)し、すぐ小林繁とのトレードで巨人に入団した。

 1年目は途中からの一軍登板だったこともあり、9勝10敗だったが、80、81年は連続最多勝と素晴らしいピッチングを見せた。
しかし、83年以降は肩の違和感を訴えることが増え、「手抜き」「100球肩」「一発病」などと揶揄された。

 87年、江川は13勝を挙げながら引退。その大きな要因に9月20日の広島戦(広島)、9回裏二死から法大の後輩でもある小早川毅彦に浴びたサヨナラ弾を挙げる。
 ただ、あの日、江川のピッチングは全盛期ながらだったという。
 最後、2−2からの1球もカーブ、あるいは捕手・山倉和博が構えたアウトコースに投げたら打ち取れたかもしれない。
 しかし、あの日の江川の手には、少年時代から作り上げた至高のストレートがあった。それを自分がもっとも自信を持つインハイに投げることになんらためらいはなかった。

 そして、そのすべてを小早川の一打が打ち砕いた。

記録で見る江川引退


日本シリーズのラスト登板



 江川卓は通算135勝で終わったが、135勝以上を挙げて引退した選手のラストイヤーの成績を見ると、10勝以上はわずか3人、江川と同じ13勝が小林繁(巨人─阪神)、10勝が村田兆治ロッテ)だ。運命の2人が同じ勝ち星で現役を終えたというのは感慨深いものもある(通算は小林が139勝で上回る)。

 江川の“プロでの”ピークは2年目の80年から肩痛を起こす82年途中までと言われる。
 特に20完投で20勝6敗、防御率2.29の81年は圧巻だった。途中から肩痛に苦しんだという82年にしても4月から6月までの3カ月で16試合に投げ、14完投。イニングは137回3分の1だ。
 最終的に24完投、6完封、無四球10試合で19勝12敗。130試合制で263回3分の1に投げ、防御率2.36。
 今なら「登板過多で壊された」と言われそうだが、当時の球界はそれでもなお「昔と比べたら」になった。 

 さらに言えば、肩痛を抱え不本意なピッチングしかできなかったという83年以降もすべて投球回数は160イニングを超え、すべて2ケタ勝利、勝率6割以上。チーム内でライバルと言われた西本聖に一度も勝ち星で負けていない(84年は15勝でタイ)。
 偶然のはずはない。調子が悪いなら悪いなりに勝つピッチングができていたことが分かる。

 対戦した多くの打者が「江川のピッチングには抜くところもあったが、ギアを上げると、とんでもない球を投げた」と口をそろえるが、それを裏付けるのが満塁での強さだ。
 被打率は79年.000、80年.154、81年.000、82年.250、83年.154、84年.154、85年.636、86年.133.87年.375。
 85年と最後の87年を除けば、かなり抑え込んでいる。

 特に81年は満塁自体を3回しか招いておらず、ヒットは1本も許していない。長く満塁での押し出しもなかったが、最終年の87年7月31日の阪神戦(甲子園)で出してしまった。

 87年の江川で誤解されやすいのは、9月20日の広島戦(広島)がラスト登板だったのでは、ということだ。実際には3試合に登板し、日本シリーズでも第3戦に先発。8回を被安打4ながらソロを2本浴び、1対2で負け投手となっている。
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