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パンチ佐藤の漢の背中!

新庄との「ゴレンジャー」も記憶に残る島田一輝氏。現在はスポーツ用品店で奮闘中!/パンチ佐藤の漢の背中!

 

新庄剛志たちの「ゴレンジャー」のアオレンジャー担当、という言い方は失礼だろうか。ファイターズの東京ドーム末期から札幌初期にかけて強打の右の外野手として存在感を発揮した島田一輝さんは現在、スポーツデポ川崎店の野球用品売り場に立っている。プロのアドバイスを受けたい(高野連所属以外の)野球少年は、訪れてはいかがだろうか。
※『ベースボールマガジン』2019年12月号より転載

いずれ家業を継ぐつもりで野球をしていたが……


島田一輝氏(左)、パンチ佐藤


 神奈川県川崎市内で最大級の広さを持つスポーツ用品店『スポーツデポ 川崎店』。2000年代初め、日本ハムファイターズで「ビッグバン打線」の中核を成した島田一輝さんは今、ここでベースボールアドバイザーとして週5日、店頭に立つ。

 島田さんが担当する野球用品売り場に併設されたヒッティングケージの隣には、島田さんの現役時代の写真などが入れられた飾り棚。その中央には04年、プロ野球史上初のストライキが行われた直後、新庄(当時の登録名はSHINJO)さんの発案でファンへのおわびにと、『秘密戦隊ゴレンジャー』の被り物をしたときの写真があった。

 大学―社会人と学校、企業こそ違えど同じプロ入りへの道をたどってきたパンチさんが、島田さんの歩みを共に振り返る。

パンチ 実は島田君のことを勘違いしていて、高校からポンッとプロに入って、そこから10年くらい苦労して出てきた選手だと思っていたんだ。大学、社会人を経ていたんだね。

島田 はい、僕は普通の公立(千葉県立柏井)高校出身で。東農大も一般推薦で入学したぐらいなんです。

パンチ 大学時代は、プロを目指す気持ちはなかったの?

島田 1年の春からベンチに入れてもらって、そこそこはやれたんですが、プロどころか社会人に進めるとも思っていませんでした。僕の実家が水道屋をしていまして、大学を出たら家に戻って、いずれは家業を継ぐことになるんだろうなと思っていたんです。

パンチ でも、社会人から話が来たんだね。

島田 4年の夏休み、監督から「(NTT関東の)練習に行ってこい」と言われて、その結果、獲ってもらえることになりました。

パンチ 俺の場合は4年のとき監督に呼ばれて、「熊谷組に行け」って言われて決まっちゃった。でもお互い一歩一歩、来た感じだね。NTT関東といえばプロ野球選手も多く輩出しているけど、それでもまだいつかは水道屋さんになるつもりだったの?

島田 自分の中であまりサラリーマンになるイメージがなかったので、野球が終わったら、たぶん帰るんだろうなと思っていました。ただ、それ以前に1年目まるっきり打てなくて、もうクビになるんじゃないかと……。

パンチ それで2年目、どうしたの?

島田 1年目の秋にトレーナーが付いたんです。僕はそのころ身長はあったものの、横がまだ細くてまったくパワーがなかったんですね。その冬、トレーナーが組んでくれたメニューに従ってウエートをやって横も付いてきたら、2年目にパカパカ打つことができて、「もしかしたら行けるかも」という感じになりました。

パンチ 俺と同じくらいの感じだね。でも2年目には来なくて、3年社会人をやったんだよね。

島田 2年目、ヒジの手術をしたために話が流れたんです。それで3年目、日本ハムに(4位で)指名してもらいました。

パンチ プロでは、一軍定着まで多少時間がかかったようだけど、どんなカベに当たったんだろう。

島田(社会人時代の)金属バットでの打ち方が通用しなかったんです。1年目は一軍どころか二軍でも結果が出ませんでした。

パンチ そうか。僕は1年目の開幕でロッテ村田兆治さんから三振して、「この人を打てたら、プロでやっていけるな」って基準ができたの。それから二軍に落ちたけど、オールスター明け一軍に上がったとき、村田さんから打って、バッティングはなんとかなるかもしれないって思って終わった1年目だった。島田君はどこでどう、手応えをつかんだの?

島田 僕、2年目はヒザをケガして半月板を取っているんです。それで1年間、野球をやっていないので、そこでクビになるかと思ったら残してもらえて。3、4年目も二軍ではそこそこ打てるかな、ぐらいの感じでした。

松坂大輔からの一打が認められ、一軍定着


00年はチーム135試合中54試合でスタメン五番打者として出場。この年の走者なしの場面で打率.225、走者ありだと.302


パンチ そして5年目。大学、社会人を出ていると、結構トシだよね。

島田 30歳でした。その年、巡回コーチという形で来た白井(白井一幸)さんに、「右足から左足に移動させながら、足を使って打つ」感覚を教わりました。最初は打球に詰まらされたんですが、そのうち体がうまく反応できるようになって、だんだんタイミングが合ってきました。それでインパクトの瞬間、ポンッと力が出るようになったんだと思います。6月、一軍に上げてもらうまでに13本ホームランを打ちました。

パンチ そこまで待ってもらえたのは良かったね。「コイツはまだこんなもんじゃない」と思って見てくれた人がいたんだろうね。そこで「やれるかもしれない」と思った?

島田 その年は半分、半分ぐらいでした。翌年、大島(大島康徳)さんが監督になられて、春のキャンプで一軍に呼んでいただけて。

パンチ ラストチャンスぐらいの気持ちだよね。

島田 だけど、キャンプの最後に二軍に落ちてしまったんですよ。

パンチ 大島さんからはバッティングの指導、受けなかったの? 大島さんの打ち方って、右バッターは非常に参考になると思うけど。

島田 直接は教わっていないですね。でもゴールデンウイーク前、一軍に呼んでもらって、西武戦に代打で出て松坂(松坂大輔)から右中間に打ったんです。それでやっと認めてもらえたし、自分も一軍でやれるんじゃないかなと思いました。

パンチ 松坂からは真っすぐを打ったの?

島田 スライダーを二塁打にしました。それで2点入って、試合にも勝ったんです。

パンチ 松坂の、あのスライダーを打ったんだったら、自信になるよね。それで『ビッグバン打線』の五番に定着したんだ。そんな勝負強さは、どこから来ていたんだろう。

島田 あれは、たまたま……(笑)。でも得点圏にランナーを置いてのチャンスって、特に代打のときは自分が打つか打たないかで決まりますよね。打てば点が入る、打たなければそのまま終わる。「ランナー三塁だから最悪、犠牲フライを打たなければいけない」というようにチームバッティングを意識しなくていいぶん、考え方はシンプルになります。「打つ」ことだけに集中できたので、うまく結果が出たのかもしれませんね。

パンチ「白い球をぶっ叩く」ことしか考えていなかったわけだね。

島田 はい。だから打てば点が入るし、打てなかったら僕の負け、みたいな。はっきり結果が出るので、シンプルに打席に入りやすかったと思います。

パンチ その中でも「この一打」というと?

島田 福岡ドームのダイエー戦(2003年4月21日)、8回まで0対2で負けていたんです。9回表、一死からランナーを2人置いた場面で代打に出て、杉内(杉内俊哉)から3ランを打って、3対2で勝ちました。あれが一番、劇的といえば劇的でしたね。

パンチ そういえば、内野手から外野に転向したんだ?

島田 4年目に転向しました。でも僕、新庄みたいに華やかな守備はできないので……(苦笑)。

パンチ 新庄はカッコよかったもんね。

島田 パンチさん、新庄とイチローの外野からの送球って、どっちがすごかったと思いますか?

パンチ 俺が見たときは、まだイチローは上り調子のころだったから。当時は、新庄のほうがすごかったと思う。

島田 僕はイチローの球を遠目にしか見たことがなくて……。僕が見た中では、外野手で新庄みたいなボールを投げる選手はいなかったんですよ。でもイチローも、メジャーで「レーザービーム」と呼ばれているじゃないですか。

パンチ それは田口(田口壮)に言わせるとね、「僕だったら、ランナーが走りませんから。イチローだとランナーが走るから、“レーザービーム”でアウトにできるんです」と(笑)。

島田 守備は俺のほうが上だということですね。走られるから、アウトも取れる、と(笑)。

パンチ イチローもいい球を投げるなと思うんだけど、新庄のほうがうわあーって感じはするよね。

島田(新庄の送球は)外野であれだけ強い球って、キレイな球ではないですよね。クセ球というか。内野手が捕りづらい。だからワンバウンドだと内野手が捕れないからって、あえてノーバウンドで投げる。

パンチ 新庄のほうが痛そうな感じがするよね。「ビターン!」って。イチローは「ピュオー!」って感じ。

島田 キレイでちょっと回転よく、「ヒュッ」と来る感じですよね。

本当はあと2年ぐらい現役でいたかった


04年、ストライキ明けの試合前練習でゴレンジャーのマスクをかぶるファイターズ外野陣(左から坪井智哉、SHINJO、森本稀哲石本努、島田


 上田利治監督の“東京ファイターズ”時代に入団し、大島康徳監督を経てヒルマン監督――北海道日本ハムファイターズ誕生という転換期を日本ハム一筋に送った島田さん。

「東京ドームはジャイアンツの“借り物”のような気分だった。東京時代からのファン、そして北海道の優しいファンに支えられ、北海道に根付けて良かった」と、当時を懐かしむ。

 北海道移転後の現役生活は、2年間。36歳で引退に至った経緯から、後半は話を始める。

パンチ プロで11年やったのか。大したもんだね。

島田 でも4、5年は何もしていないようなものです(笑)。

パンチ 何が引退の引き金になったの?

島田 05年のキャンプ中に、ふくらはぎを痛めたんです。開幕に間に合わせたくてちょっと無理をしてしまったんですね。結局シーズン中、また再発して二軍落ち。年も年だったので……。

パンチ 年を取ると、ふくらはぎとかワキ腹とか背中とか、ヘンなところを痛めるよな。そこで神経の図太いヤツは、「前半は休みます」って言ってね。後半、チームが競ったときに復帰、活躍して「来年もやります」となるんだけど……(笑)。

島田 僕もまだ36歳だったので、もう少しやりたかったんですが、若い子を使いたかったようで、「来年の構想には入っていない」と言われました。

パンチ 他球団でもう1年、という気持ちはなかった?

島田 クビになる前に、コーチの打診があったんです。自分ではあと2年くらいはできるんじゃないかと思っていましたが、周りの人に相談しても、「受けたほうがいい」という声が多く、引退を決めました。

パンチ それで、打撃コーチに就いたの?

島田 はい、二軍の打撃コーチを2年、務めました。

パンチ コーチの楽しさ、難しさはどう感じた?

島田 選手が良くなってきたなと思えたら、やはり楽しいんですが……。難しいのは、選手によって言葉や練習方法を変えなければいけないこと。その選び方が難しかったですね。

パンチ 当時、頑張って伸びてくれた選手というと?

島田 今巨人にいる陽岱鋼と、最後東京ヤクルトに行った鵜久森淳志を見ていました。鵜久森は良くなるまで時間がかかったんですが、球団はそれでもいいと言ってくれたので。ただ、途中方針が変わって、日本ハムでは苦戦していましたね。それからヤクルトに行って活躍できたのは、良かったです。

パンチ 日本ハムを辞めてすぐ、このスポーツデポに来たの?

島田 いえ、球団に残ってスコアラーを4年務めました。そのあと、大学の監督の紹介で、デポに入りました。

道具選びはアドバイスとじっくり試してみてから


パンチ ここでは今、どんな仕事をしているの?

島田『ベースボールアドバイザー』として、野球用品の販売とグラブの修理加工、あとは店内にヒッティングケージがあるので、空いた時間には子どもたち中心に野球を教えています。

パンチ 野球用品を買いに来た人に対して、選び方のアドバイスもするんでしょう?

島田 バットはヒッティングケージ内で実際に振ることができますので、お客様ご自身でだいたいの長さと重さを決めて振ってもらって、振れる範囲の重さで選んでいきます。メーカーにはこだわらず、しっかり振れるものをおススメしますね。振れないバットは、やめたほうがいいですから。グラブについては、大きさは見ますが、最終的には本人が手を入れた感覚を大事にして選んでもらっています。

パンチ 特に子どもさんなんか、「このメーカーがいい」って指定してくる子もいない?

島田 中にはいますけど、いろんなグラブに手を入れてもらうようにはしています。グラブによって手の当たり方が違うので、どこか当たって気になるようだったら、「それはやめたほうがいいよ」と言っています。

パンチ 売り場を見ると、かなりいろんなメーカーのものがそろっているよね。

島田 野球用品の品ぞろえは、この界隈ではおそらく一番だと思いますよ。

パンチ この仕事の楽しさは今、どこに感じている?

島田 コーチ時代と一緒で、やはり教えた子が「打てた」とか、「ホームランを打った」とか言いに来てくれたときですね。

パンチ 教えるときは、どういうことに気を付けて教えているの?

島田 僕は自分の中にある、基本的な体の動かし方を前提に、教えています。

パンチ 子どもって、特に小学生ぐらいだとすぐに結果が出るでしょう。

島田 そうですね。だからこそ、小学生のうちにしっかり、正しい基本を学んでおいたほうがいいと思うんです。子どもたちだけでなく指導者の方も、ご自身の引き出しを増やすためにも、どんどん話をしに来ていただきたいと思っています。

パンチ 今の夢は? 毎日、どんな気持ちで日々過ごしていますか?

島田 この仕事を楽しくやりたい、ということですね。ただ、もし指導者のお話があれば、考えてみたいです。

パンチ 実際、またどこかでコーチをしたい気持ちはあるんだ。

島田「野球をうまくしてあげたい」気持ちは強いです。

パンチ そうか。僕は自分が野球をやめたら、もう野球はいいやって思ったけど、島田君は教えるのが好きなんだね。最初に言っていた、水道屋さんを継ぐ話はどうなったの?

島田 もう弟が継いでいるので、たぶん帰らなくてもいいんじゃないかと……(笑)。

パンチ ウチはこの間、家族会議したんだよ。それで娘に、「パパは一応、野球選手、芸能人として富士山の上まで登ったよ。あとは25年かけてゆっくり下山していく。だから、キャプテンはこれからお前だよ」って言ったんだ。

島田 そうなんですね。うちは大学4年と高校3年生で、下の子が大学に進学するので、あと4年は必死に頑張らないと。

パンチ そのためにも、まずはここで売り上げを伸ばしていかないとね。

島田 はい。うちは野球用品以外の品ぞろえも抜群なので、ぜひ遊びに来てください。

パンチの取材後記


 今回、対談はお店の休憩室で、写真撮影は野球用品売り場で行われました。最初、対談をしていたときは言葉を一つひとつ考えながら丁寧に話す、その話し方がとても印象的で、「真面目なヤツなんだなあ」と感じていました。その後、野球用品売り場に移り、野球用具に触れたら、たちまちハツラツ感が出てきましたね。やっぱり野球が好きなんだなあ。ピュアな彼の性格が感じ取れた、対談でした。

 日本ハム『ビッグバン打線』の一員として、また本文でも出てきた『ゴレンジャー』の1人として、なんだか派手で豪快なイメージがありましたけれども、素顔の彼はどんと動かない山のように、背伸びもせず、ブレもしない堅実な男。もしまた野球界への情熱が沸々湧いてきたら、そのときまた素敵な出会いがあって、彼の希望する方向へ導いてくれればいいな、と思いました。

●島田一輝(しまだ・かずてる)
1969年9月19日生まれ、千葉県出身。柏井高から東農大、NTT関東を経てドラフト4位で95年日本ハムに入団。しばしばクリーンアップを打つなど勝負強さを発揮し、03年には88試合で11本塁打をマークした。05年限りで引退。通算成績は387試合出場、252安打(打率.250)、26本塁打、152打点。引退後は日本ハム二軍打撃コーチ、スコアラーを経て、現在はスポーツデポ川崎店(川崎市川崎区小田栄2-1-2)で週5日(月曜・金曜を除く)ベースボールアドバイザーとして勤務。

●パンチ佐藤(ぱんち・さとう)
本名・佐藤和弘。1964年12月3日生まれ。神奈川県出身。武相高、亜大、熊谷組を経てドラフト1位で90年オリックスに入団。94年に登録名をニックネームとして定着していた「パンチ」に変更し、その年限りで現役引退。現在はタレントとして幅広い分野で活躍中。

構成=前田恵 写真=犬童嘉弘
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