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高校時代に「控え投手」も、プロ野球で大ブレークした選手たちとは

 

 プロ野球はアマチュア時代から抜きん出ていた選手たちの集まりだ。このハイレベルな戦いで活躍できるのは一握りという厳しい世界だが、高校時代に「控え投手」だった無名の選手が大ブレークしたケースもある。人間の素質はいつ花開くか分からない。控え時代も腐らずに高い志で鍛錬を積み重ね、努力が結実した。その姿はアマチュアの選手たちにも大きな勇気を与えるだろう。


・上原浩治(元巨人、オリオールズ、レンジャーズ、レッドソックス)

 東海大仰星高時代は外野手。3年に上がると投手も兼任したが、エースは建山義紀日本ハム)で登板機会はほとんどなかった。当時は教師になりたいと、大体大の入試を受けたが不合格で浪人生活に。予備校での勉強、家計を助けるためのアルバイトとともに体力強化に取り組んだ。大体大で本格的に投手に転向すると、大学通算36勝4敗で5度のリーグ優勝に大きく貢献。97年のインターコンチネンタル杯の日本代表に選ばれ、国際大会151連勝中だったキューバ相手に決勝戦で投げ勝って衝撃を与えた。巨人に逆指名で入団すると、1年目に20勝を挙げるなど抜群の制球力でエースに。メジャー挑戦後も、13年にレッドソックスの不動の守護神として日本人初のリーグチャンピオンシップに輝くなど主に救援で活躍した。日米通算100勝100セーブ100ホールドは史上初の大偉業だ。


・黒田博樹(元広島、ドジャース、ヤンキース)

 球史に名を刻む大投手だが、上宮高時代は一度もエースナンバーをつけたことがない。2年春に背番号10を背負い次期エースの呼び声高かったが、新チームの秋は西浦克拓(元日本ハム)、3年生の春と夏は溝下進崇(現・大阪ガスコーチ)が背番号1を背負い、黒田は公式戦での登板がほとんどなかった。精神面の弱さと好不調の波が激しいのが課題とされていたが、専大に進学後、4年春にエースとして東都一部昇格に貢献。広島に逆指名で入団後は「ミスター完投」の異名で球界を代表する投手に成長し、メジャー移籍後もドジャース、ヤンキースで5年連続2ケタ勝利をマーク。メジャー各球団が破格の条件でオファーを出したが、16年に古巣の広島に復帰した際は大きな感動を呼んだ。日米通算203勝で名球会入り。


・渡辺俊介(元ロッテ)

 国学院栃木高時代は、エースで四番だった小関竜也(元西武)に次ぐ2番手投手。国学院大では2部でプレーし、目標の1部昇格は叶わなかった。その後、別の選手を探しに来ていた新日鉄君津の應武篤良監督の目に留まり、社会人野球へ。應武監督の指導で課題の制球が劇的に良くなり、シドニーオリンピック日本代表に選出されるなど頭角を現した。2001年、ロッテにドラフト4位で入団し、地上スレスレから投げる球界では珍しいアンダースローとして04年に12勝、05年に15勝を挙げてエース格に。06、09年とWBC日本代表で連覇に貢献した。ロッテ退団後は米国独立リーグでプレーし、引退後の現在は新日鉄住金を母体に生まれた社会人野球・日本製鉄住金かずさマジックで監督を務める。


・平野佳寿(オリックス、ダイヤモンドバックス、マリナーズ)

 鳥羽高時代は腰痛など故障に苦しんだ。チームは3季連続で甲子園に出場し、平野は2年春、3年春と2度ベンチ入りを果たしたが、控え投手だった。京産大に進学して素質が開花。2年時からエースとなり、リーグ戦通算36勝11敗、404奪三振で最優秀選手に2回、最優秀投手に4回選出された。2006年、大学生・社会人ドラフトでオリックスに希望枠で入団すると、救援で11年に最優秀中継ぎ賞、14年に最多セーブに輝き、メジャー挑戦。18、19年はダイヤモンドバックスで計137試合に登板して47ホールドをマーク。タフネスぶりで評価を高め、今年からマリナーズでプレーする。

写真=BBM
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