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「ヒゲの齋藤」も怒られた!? 顔はニコニコ、でも実は……。関根順三氏の横顔

 

「にこにこと、ひょうひょうと」したイメージ


1982年の、関根潤三監督(左)と斉藤明夫投手


 関根潤三さんが亡くなった。93歳。老衰のためだというから、大往生だったということだろう。投手として65勝、打者として1137安打。大谷翔平(現エンゼルス)が出てくる前は、「二刀流」の代表格と言えばこの人だった。

 とはいえ、そう書いている私もさすがにその現役時代は知らない。筆者(50代後半)の年代だと、そのイメージは、大洋やヤクルトの監督として(指導者としては、その前に広島のコーチもされている)の印象が一つ、そして、『プロ野球ニュース』の解説者としての印象が一つ。共通するのは、とにかくいつもニコニコと笑っていることだ。

 筆者の場合、大洋は子どものころから好きなチームでもあったので、けっこうテレビなどでもよく見ており、大洋監督としてのイメージが強い。思い出す姿はなぜか、投手交代のとき(味方のピッチャーが打たれているのに)にこにこしながらマウンド付近でボールを両手でこねている、といったイメージだ。そして「なんか、勝ってても負けてても、やたら五月女(五月女豊)が出てきていたなあ」ということや、「勝っても負けても、やっぱりひょうひょうとした感じだったなあ……」ということを思い出す。

 常に、「にこにこと、ひょうひょうと」したイメージの関根氏だったが、やがてこの仕事に就き、いろんな人から話を聞くうち、実はそれだけではない、ということも分かってきた。前述のピッチャー交代の風景のときは、顔はにこにこしてボールをこねているのだが、実は足元ではピッチャーの足をよく踏んでいた、という話を、のちに大洋OBから聞いた。

 関根氏が広島コーチだった時代に鍛えられた衣笠祥雄氏によると、ゲームで何かミスをすると、まず廣岡達朗コーチの部屋に呼ばれてお説教、それが終わると関根コーチがニコニコしながらやってきて、延々と素振りが始まるのだ……ということだった。関根さんは、監督時代、采配としてはまったく策を弄するようなところはなく、馬なりのような采配だったと記憶しているが、将来のチームの骨格になるであろう選手をしっかりと育てた。こうして、広島コーチ時代は山本浩二、衣笠を、大洋では高木豊を、ヤクルトでは広沢克己池山隆寛を育てた。まあ、育てることに徹したのは、大洋やヤクルトの監督時代には、「自分の後に長嶋茂雄氏を呼ぶときのために……」という事情もあったのだろうが……。

球宴で5回を投げたら……


 以下は関根氏の大洋監督時代の抑えのエースだった、斉藤明夫氏からうかがった話。斉藤氏は、オールスターゲームで1人でなんと5イニングを投げるという例のない記録を持っている。1982年の第2戦のことだ。オールスターでは1人の投手が投げられるのは3回までと決まっているが、当時、延長戦はこの規定の例外となったため、斉藤氏は延々と投げた。ちなみに現在はオールスターでは延長戦はないため、この記録はもう破られることがない不滅の記録だ。

 この日、1点リードからマウンドに上がった斉藤氏は、そのリードをすぐに追いつかれてしまうが、それはピンチで平野(平野光泰、近鉄)を打ち取ったはずが、すっぽ抜けたバットが自分のほうに飛んできたのをよけたため、適時内野安打になってしまったという不運なものだった。そしてそのあとは雨の中、延々と投げて抑えて、優秀選手賞を手にした。全セの藤田元司監督(巨人)からは「(斉藤は)実力一番なので、踏ん張ってもらいました」と賛辞を送られた。

 ナイターで、しかも延長戦。斉藤氏がゲーム後、くたくたで宿舎に戻ると、もう夜中である。すると関根監督から電話がかかってきた。「よく頑張ったな」と褒められるのかと思いきや、「何でそんなことを引き受けたんだ。投げすぎだ!」と怒られてしまったのだそうだ。あの、こわもての「ヒゲの斉藤」も、やっぱり怒られていた。顔はニコニコの関根さん、やはり畏るべしである。合掌。

文=藤本泰祐 写真=BBM
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