今年、西武はチーム名がライオンズとなってから70周年。メモリアルイヤーを迎えているが以前、
田尾安志氏に西武時代に印象深い出来事を聞いたときに出てきたのが移籍初年度の契約更改だった。1976年、ドラフト1位で同志社大から
中日へ入団した田尾氏。同年、新人王を獲得し、巧打のリードオフマンとして82年から3年連続セ・リーグ最多安打をマークした。82年には優勝も経験。選手会長も務め、中日に必要不可欠な選手だったが、85年キャンプイン直前に西武へトレードとなった。新天地ではしかし、127試合に出場して打率.268、13本塁打。チームは2年ぶりの優勝を果たしたが、自身は前年の打率.310、20本塁打から大きく成績を落としてしまった。
「期待されて西武に入ったのに思うような成績を挙げることができませんでした。でも契約更改の席で、坂井保之球団代表にまず『お疲れさま。移籍1年目はどうだった?』と聞かれ、『期待に添うことができなくて申し訳ないです』と返したら、『田尾君、夏休みの時期に1対9でボロ負けしたゲームがあっただろ。でも田尾君の本塁打で1点入った。あのホームラン1本は子どもたちの思い出のホームランだ』と言ってくれたんです」
中日時代の契約更改とは真逆だったという。中日ではいくら活躍しても、悪いところを突かれる。例えば打率3割をマークしも盗塁が少ないというふうに。しかし、坂井球団代表は成績の悪さを責めることなく、逆にいい点を挙げてくれた。
「それで、坂井さんは続けて『年俸は下げてもいいのか?』と。『当然、そう思って来ていますから』と言うと、『じゃあ、300万円、下げてもいいか』と全部こっちに聞いてくる。『それくらいのダウンでいいんですか?』と逆にこっちが聞いたくらいでしたよ(笑)」
選手のプライドを損ねることなく、年俸が下がるにしても気持ちよく判を押させる。坂井球団代表の心遣いは見事だった。
「坂井さん、それに根本(
根本陸夫。元西武管理部長)さんは野球人の扱いがすごく分かっていた。言葉一つで気持ち良くなる。そのあたりをしっかりと感じ取ってくれる人たちでしたね。のちに坂井さんと話したときに『オーナーというのはわがままなんだ。ちょっと悪いとすぐにクビにしろという。俺の仕事はね、“はい”と言いながら、下には伝えないことなんだよ』と言っていましたね」
80年代前半から始まった西武の黄金時代。当時の強さはこういったスマートな人がフロントのトップにもいたからだと田尾氏は感じている。
文=小林光男 写真=BBM