4月9日に死去した関根潤三氏(元大洋、ヤクルト監督)は法大の後輩・山中正竹氏(現全日本野球協会会長)に54年前、金言を送っていた
東京六大学野球には、不滅の大記録がある。
個人通算勝利、48勝。大学野球は春と秋、4年間8季であり、単純計算で1シーズン6勝が必要になる。同リーグは5校との対抗戦。2勝先勝の勝ち点制で、1勝1敗で迎えた3回戦でも勝たなければ、届かない数字である。
記録保持者である法大OB・山中正竹氏(現全日本野球協会会長)は身長168センチ。「小さな大エース」の原点にあったのは、同じサウスポーである大先輩からの金言だった。
「大学1年春(1966年)のシーズン後、新宿のマッサージ店で初めて会う機会があり、関係者を通じて『お前さんみたいなピッチャーは(バットを)振らせなければいい』と伝えられました」
4月9日、93歳で死去した関根潤三氏である。法大OBの関根氏は65年にプロの現役を引退した。当時、39歳。大分(佐伯鶴城高)から東京に出てきたばかりの19歳からしてみれば「(1949年の日米野球)シールズ相手に投げた(延長13回、4失点)あの関根さんだ! と。格好良かったですよ。まさに天の声、神の声でした……」と興奮を隠し切れなかったという。
関根先輩からのアドバイスを実行に移した。
1年秋、法大・松永怜一監督から、対戦校分析の指示を受けた。練習を早めに切り上げ、神宮球場のネット裏最前列席に座ってデータを収集。「ここに投げれば振らない、ここを攻めればファウルになる。リスクがない投球をひたすら追求しました。究極のピッチングは、打者にバットを振らせないこと」。当時は明大に
高田繁(元
巨人)、早大には
谷沢健一(元
中日)、
荒川尭(元ヤクルトほか)強打者がいた群雄割拠の時代である。相手の弱点を突く投球が冴えわたり、研究の成果を収めて、リーグ優勝に大きく貢献した。
「私は体が小さく(関根氏は173センチで同じ左投左打)、三振をバッタバッタと取るタイプではなく、剛速球でバットをへし折る投球もできない。ストライクゾーンの四隅へ投げ込む。コントロールを安定させるために、関根さんからは『どんどん走れや!』との助言もいただきました」
7勝を挙げた1年秋は、エースとしての立場を不動としたシーズンだ。山中氏は同秋から4年秋までの7シーズン、全カードで1回戦の先発を任されたのが誇りである。ピッチングの原点は、関根氏の一言だった。
「投手とは考えることが大事で、松永さんからは、相手校の偵察を通じて『自立』を教わりました。関根さんからは投球の奥義。私の中で『フルスイングをさせないピッチング』は、関根さんからの助言を応用させ、こだわったスタイルです。打者を泳がせる、詰まらせる。究極のピッチングを追い求め、大したボールがなくても48勝につながった。のちに、感謝を伝えても『そんなことあったか?』と、関根さんらしい返し……。すっとぼけた何気ない『関根語録』の中から、ヒントを与えてくれたわけです。頭の良い人で、本質を突いていました」
振らせなければいい、フルスイングをさせない。昭和の野球は、令和にも当てはめることができる。いつの時代になっても投手とはコントロール、そして、制球を磨くには強じんな下半身の構築、つまり、走ることが基本。レジェンドの言葉は大切にしなければならないと、あらためて教えられた。
文=岡本朋祐 写真=BBM