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プロ野球20世紀・不屈の物語

学生野球との間に横たわる“壁”の原点/プロ野球20世紀・不屈の物語【1932年〜】

 

歴史は勝者のものだという。それはプロ野球も同様かもしれない。ただ我々は、そこに敗者がいて、その敗者たちの姿もまた、雄々しかったことを知っている。

統制された戦前の野球



 昨今、子どもたちが殺伐としているようだ。移動すなわち全力疾走、元気あふれる彼らが外出自粛を求められているのだから、パワーを持て余していることは想像に難くない。ただ、それが他者への攻撃性や敵意に転じてしまっているとなれば、これは怖い話だ。本来なら大人が彼らをポジティブに方向転換させるべきところなのだが、その大人たちもいっぱいいっぱいなのだろう。それでも、こと子どものこととなれば、大人は自分のことを後回しにしてでも向き合わなければなるまい。

 ただ同調して寄り添うだけでは、子どもたちに生じてしまった悪意を承認することにもつながる。ましてや、一緒になって他者をストレス発散の対象にしてもいけない。大人がすべきことを放棄することが、子どもの可能性を奪ってしまうこともある。大人とは実に難儀な役回りだが、だからこそ大人なのであり、どんな逆境でも盾になり、道しるべとなってきたからこそ、人類は進化し、そして進歩してきたのだろう。

 近年はプロ野球の選手を引退して、学生野球に目を向ける選手も多くなってきた。ただ、2019年にマリナーズで現役を引退したイチローが学生野球の指導をするべく研修を受けている姿に、違和感を覚えた人もいたのではないか。日米通算4367安打と、ヒットメーカーという表現すらはばかられるようなイチローでさえも、学生という立場の後進を指導するには高いハードルがあるのだ。最終的には特例的に認められたようだが、イチローほどの数字を残せないプロ野球選手が圧倒的な中で、プロとして培った技術が構造的な問題で学生という若者に伝わらないのは惜しいことだ。これまでも才能の芽を埋もれさせた若者が少なからずいたことだろう。彼らの不屈の物語は、雌伏のまま、始まることすらなかったのだ。

 プロ野球が始まったのは1936年。プロとアマの間に横たわっている分厚い壁の起源は、その4年前にさかのぼる。32年3月28日に発令され、4月1日から施行された「野球の統制ならびに施行に関する件」、いわゆる野球統制令。これで学生とプロの試合が禁止されたのが発端だ。ただ、当時は日本にプロ野球は存在せず、このときのプロとは、来日してくるアメリカのプロ野球チームを意味する。学生は国外へ遠征して、プロ、アマを問わず、外国のチームと試合をすることも禁じられた。

 34年にはベーブ・ルース(ヤンキース)ら大リーグ選抜チームが日米野球のために来日しているが、この試合のために、のちに巨人の伝説的なエースとして名を残す沢村栄治は京都商を中退、つまり学生の身分を捨てることを余儀なくされた。沢村は3度の応召で戦没したが、その学歴のために3度も招集されたともいわれる。この一事だけをもってしても、相当に罪は深い。結果論と片づけるのは大人の姑息な言い訳だ。

47年まで残されたままだった統制令


 プロとアマが明確に分けられたのは戦後の49年。アメリカが主導していたアマチュアの世界大会に日本の代表チームを参加させるためで、これによってプロのチームと社会人のチームが対戦することはなくなったが、それでも双方が特例的な協約を締結することで人材の往来は続いた。

 一方の学生野球は、戦後になっても戦前の“負の遺産”との戦いを余儀なくされる。野球統制令が廃止されたのは47年になってから。国家の統制を受けずに教育の一環としての学生野球を発展させるため、学生野球は46年に学生野球基準要綱を制定した。これで、アマチュアリズムの遵守を目的にプロと一定の距離を置くことになった学生野球だが、61年にプロ野球の中日がシーズン中に社会人の日本生命に所属している選手と契約した問題が起きたことで、学生野球もプロ野球に対して態度を硬化させる。プロ野球と学生野球の“雪解け”は73年から段階的に始まったが、半世紀を超える長い時間を経ても、まるで永久凍土のように、その一部は解けきらないまま残されている。

 当時には当時の事情があっただろう。ただ、今は緊急事態だが、軍国主義の“非常時”ではない。若者の未来のために歴史を超克するのも、やはり大人の役割だ。

文=犬企画マンホール 写真=BBM
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