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プロ野球20世紀・不屈の物語

「早咲きだった」渡辺久信の“大器晩成”/プロ野球20世紀・不屈の物語【1989〜99年】

 

歴史は勝者のものだという。それはプロ野球も同様かもしれない。ただ我々は、そこに敗者がいて、その敗者たちの姿もまた、雄々しかったことを知っている。

89年の天王山で被弾



「早咲きだったんじゃないの?」

 1980年代に始まった西武の黄金時代。82年にチームが西武となって初優勝、日本一に輝くと、いきなりリーグ連覇。日本一にも2年連続で輝き、その後も85年からリーグ4連覇、86年からは3年連続で日本一となり、90年からはリーグ5連覇、ふたたび3年連続で日本一に。そんなチームをエース右腕として引っ張ったのが渡辺久信だ。そんな渡辺は、のちに自身の現役時代を振り返って、実にアッサリと、冒頭のように語っている。

 早咲きだったのは確かだ。ドラフト1位で84年に入団。このとき、パ・リーグには日本ハム津野浩、南海に加藤伸一がいて、いずれも甘いマスクを持った19歳の投手だったこともあって、“19歳トリオ”として注目を集めた。そんな1年目こそ15試合の登板で1勝にとどまったが、2年目の85年は先発、リリーフで最終的に自己最多となる43試合に登板して8勝11セーブ。150キロを超える快速球に加え、連投でもマッサージがいらないほどの身体能力を武器に、翌86年に16勝で初の最多勝。以降、隔年で3度の最多勝に輝いた。

 結果的に最後の最多勝となったのが90年で、自己最多の18勝。プロ7年目のことだ。だが、翌91年は7勝に終わり、4年連続2ケタ勝利はならず。その翌92年には12勝を挙げたが、これが最後の2ケタ勝利となる。96年にノーヒットノーランを達成したが、6勝。90年までの勢いは間違いなく失われていた。

「そこまでの選手だったんだと思いますよ。18歳から、まるまる15年、投げているようなもの。今は選手の寿命が延びてるけど、当時は15年やれば、よく頑張った、そろそろ引退、という感じだった」

 ただ、失速していく中で、新しい物語は着実に紡がれていた。一進一退を繰り返す日々には、すぐに実を結ぶものではなくとも、新たなステップへのチャンスが秘められていることも少なくない。のちのち振り返ったときに、それが分かることも多いだろう。その原点は、渡辺を語るうえでは欠かせない屈辱の場面にある気がする。89年10月12日、近鉄とのダブルヘッダー(西武)。優勝の行方を左右する天王山だったが、この第1戦で近鉄のブライアントは2試合にまたがる4打数連続本塁打を放って近鉄の優勝を呼び込んだが、それまでブライアントを得意としていた渡辺は、中1日でリリーフ登板した第1戦の8回表、その3発目を浴びて、マウンドにヒザを落とした。

ヤクルト、そして台湾へ


89年10月12日、近鉄とのダブルヘッダー第1戦(西武)、ブライアントに一発を浴びてマウンドでヒザを落とした


「勝負球は2つ、高めの真っすぐか低めへのフォーク。それでストレートを選択してブライアントの空振りゾーンを狙った。打ったほうがすごいと思うしかない」

 こう淡々と振り返るが、森祇晶監督は「なんでフォークを投げん」と激怒。このとき、結果論の非難が、どれだけ選手を傷つけるかが分かったという。

 西武は初めてゼロ勝に終わった97年オフに戦力外。「野村克也監督の野球を学んでみたい」とヤクルトへ移籍して、1年で現役を引退することになるのだが、「あの1年で、すごくいい勉強ができたと思いますよ」とも語っている。99年には、いろいろな野球を見てみたいと台湾へ。コーチ兼任ながら最多勝、最優秀防御率に輝く離れ業もあったが、台湾の選手たちに、かみ砕きながら基本を教え、選手のモチベーションを保つ努力をしたことが、21世紀になって生かされることになる。

 2008年、西武の監督として就任1年目の優勝、日本一に。「自分が言われて嫌だったことは、やらない」という監督の下、選手たちはのびのびとプレーして、それぞれ本領を発揮したのだ。

 一進一退が続く昨今。ピンチをチャンスに変えるヒントも、きっとある。

文=犬企画マンホール 写真=BBM
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