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プロ野球20世紀・不屈の物語

プロ野球“元年”の暗中模索と進取果敢/プロ野球20世紀・不屈の物語【1936年】

 

歴史は勝者のものだという。それはプロ野球も同様かもしれない。ただ我々は、そこに敗者がいて、その敗者たちの姿もまた、雄々しかったことを知っている。

全7球団ながら6球団で開幕


1936年、優勝を果たした巨人ナイン


 ほとんどの人が経験のない苦境に立たされているであろう2020年。プロ野球も同様で、開幕に向けての紆余曲折が続いている。すでに前例のない事態であり、無事に開幕を迎えても、異例のシーズンとなる可能性は多分にあるだろう。

 プロ野球の試みが始まったのは、ちょうど100年前、1920年のことだ。早大のエースとしてアメリカ遠征を投げ抜いた河野安通志が中心となって日本運動協会(芝浦協会)が誕生。だが、関東大震災の影響で24年には解散に追い込まれ、宝塚協会として再スタートしたものの、対戦するプロ球団が現れず、29年に解散した。現在につながるプロ野球が始まったのは、その7年後の36年。その1年目のシーズンも異色のシーズンだった。

 最初に創設された球団は巨人。34年に大日本東京野球倶楽部として結成され、翌35年に東京巨人軍、英文で「TOKYO GIANTS」に。その12月に発足したのが大阪タイガース、現在の阪神だった。36年に入ると新球団の結成が加速する。1月に名古屋、現在の中日が誕生すると、その2日後には東京セネタース、その6日後には阪急、現在のオリックスが発足。2月には大東京、名古屋金鯱が結成された。そして、東京3、大阪2、名古屋2の全7球団でプロ野球の歴史が幕を開けることになったのだが、いきなり前にも後にも例がない開幕となる。

 プロ野球のスタートに向けて全国を縦断し、各地で積極的に参加を働きかけてきた巨人がアメリカ遠征のため不在。それでも残った6チームで「第1回日本職業野球リーグ戦」が敢行された。甲子園、鳴海、宝塚の3カ所で大会が行われたが、鳴海、宝塚では金鯱も不在。優勝の概念もなかったが、3大会10試合で9勝1敗の東京セネタースが勝率では他を圧倒した。ちなみに日本で最初のプロ野球の試合は2月に渡米壮行試合として行われた巨人と金鯱の試合で、巨人が2連勝している。

 初めて7球団がそろって始まったのが「連盟結成記念全日本野球選手権」だ。戸塚、甲子園、山本の3カ所でトーナメント戦を行い、名古屋、阪急、タイガースが頂点に。王座決定戦も予定されていたが、球場難のため中止になっている。 

踏襲されなかった1年目


 いよいよ“優勝”を決めるべく幕が開けたのが第2回日本野球選手権だ。東京に上井草球場、洲崎球場も完成し、甲子園、宝塚、鳴海と合わせて5カ所で、リーグ戦4回、トーナメント戦2回の6大会を行い、それぞれの大会の1位チームに1点(2チームが同率1位の場合は0.5点)を与え、その合計点数で優勝を決めることになる。甲子園でのリーグ戦は巨人が1敗のみで1位。鳴海のトーナメントはタイガースが、宝塚のトーナメントは巨人が制した。

 上井草のリーグ戦ではタイガースと名古屋が、甲子園のリーグ戦は巨人とタイガースが、それぞれ同率1位に。最後は海抜わずか60センチ、海からの逆風が強く、満潮になるとグラウンドが水びたしになる洲崎球場でのリーグ戦だ。ボテボテのゴロが内野安打になるような悪条件の下、タイガースと阪急が1位を分け合った。そして、ともに2.5点の巨人とタイガースが、その洲崎球場での優勝決定戦で激突することになる。これは、現在に連なる巨人と阪神の“伝統の一戦”が始まった瞬間でもあった。

 第1戦から巨人の沢村栄治、タイガースの景浦将が投げ合い、“二刀流”景浦が3ランを放つなど追い上げたが、巨人が逃げ切り。翌日の第2戦はタイガースが沢村を攻略。ともに勝てば優勝の第3戦は一進一退の攻防となる。タイガースが先制も、巨人が逆転。8回表には、5回表からリリーフしていた沢村が景浦を3球三振に打ち取り、そのまま巨人が優勝を決めた。

 この巨人とタイガースの激闘がプロ野球が発展していく原動力となったといわれるが、この36年のスタイルは1度たりとも踏襲されることはなかった。確かに安定した運営は難しいだろう。だが、環境が整わない中で模索しながらも、果敢に前へと突き進む気概が見えてくる。誰もがパイオニアだったのだ。いまを生きる我々も、そんな気概を心の片隅に置いておいてもいいのかもしれない。

文=犬企画マンホール 写真=BBM
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