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プロ野球20世紀・不屈の物語

78年前の今日。延長28回、3時間47分のトリプルヘッダー3試合目/プロ野球20世紀・不屈の物語【1942年】

 

歴史は勝者のものだという。それはプロ野球も同様かもしれない。ただ我々は、そこに敗者がいて、その敗者たちの姿もまた、雄々しかったことを知っている。

9回表に同点2ラン……


1942年5月24日、名古屋対大洋、トリプルヘッダー3試合目のスコアボード


 さかのぼること78年前、1942年の今日のことだった。先攻の名古屋(現在の中日)が0110000020000000000000000000、後攻の大洋(名古屋金鯱と翼が合併して誕生したもので、戦後の大洋ホエールズとは別のチーム)は0000022000000000000000000000。なんとも分かりづらくて恐縮なのだが、これは試合のランニングスコアだ。イニング数は28回、両チーム4点でドロー。同じ野球でも、なにやら別の惑星での試合にも思える。ただ、これを時代の違いというだけで突き放すわけにはいくまい。去年の我々に、今年の我々を想像できた人はいないはずだ。強い違和感を覚える過去を丁寧に振り返ることで、ちょっとした想定外であれば悠々と打開できるコツようなものを手に入れられる気がする。

 舞台は5月24日の後楽園球場。ダブルヘッダーならぬトリプルヘッダーの3試合目だった。近年はナイターが多くなって、仕事を終えてから球場に駆けつけることが楽しみになっているファンも多いだろうが、当時はナイター設備がなく、日没で試合は強制終了。1球場に3チームが集まって、明るいうちに3試合を戦い終えようという強行スケジュールだった。もちろん、県をまたいだ移動に自粛が求められていたわけではない。太平洋戦争の真っただ中、交通網も整っておらず、そんな状況でもプロ野球をファンに届けようとしていたのだ。

 名古屋も大洋も、これが2試合目。第2試合を戦った大洋は、わずか25分の休憩をはさんで、この第3試合に臨んだ。大洋の先発は野口二郎。3日前に完封勝利、前日も9回一死まで無安打無得点に抑えて2試合連続となる完封勝利で、そこから料亭で泥酔、二日酔いでマウンドに立ったという。名古屋の先発は西沢道夫。戦後は打者として中日の初優勝に貢献したレジェンドも、まだ20歳だった。

 試合は名古屋が酒の残る(?)野口二を攻め、2回表に守備の乱れ、3回表には「音が違う」とファウルが二塁打に覆る幸運(野口二にすれば不運)に失策も重なって1点ずつ。大洋も6回裏に2点を奪って同点に追いつく。7回裏には無死一、二塁から捕手の佐藤武夫が送りバント。鈍足で知られた佐藤を西沢が一塁で刺そうとしてセーフとなり、この間に二走の村松長太郎が本塁へ、焦った一塁手の野口正明が本塁へ悪送球、一走の苅田久徳も生還して、大洋が2点を勝ち越した。名古屋は9回表に捕手の古川清蔵が2ラン。試合は振り出し、いや、もっと手前まで引き戻された。そのまま延長戦に突入。次に試合が大きく動いたのは27回裏だった。

伝説のキーマン? 佐藤武夫


 27回裏の大洋は、二死から佐藤の打球が左中間へ。三塁打コースだったが、佐藤は足がもつれて一塁手の野口正に激突し、ギリギリでセーフの二塁打に。一打サヨナラのチャンスで続く織部由三が中前打も、三塁を回ったところで佐藤が転倒、三塁へ戻ろうとしてアウトとなる。28回は両チーム1安打ずつで日没。相次ぐ応召で選手が減った時代でもある。野口二は「回を追って気合が入り、最後はいつも以上の調子で投げてしまった」と344球、西沢は「最後は無意識に投げていたんだろう」と311球を投げ切った。

 選手の交代は7回裏に大洋の苅田久徳が山川喜作の代打で出たのみ。守備の名手でもあった苅田は、そのまま二塁の守備に就いた。その一方、二遊間を組んだのは、のちに指導者として名を残す濃人渉で、この試合だけで4失策を喫している。だが、試合時間は単純計算で1イニングあたり8分、わずか3時間47分だった。

 この42年は敢闘精神を求める軍部の指示で延長のイニングが無制限となっており、アメリカ大リーグの26イニングを超える28イニングを戦ったことが「真摯敢闘の見本」として、のちに連盟から表彰された。だが、間違っても、この両チーム19人は、お国のために試合を戦ったわけではあるまい。前例のない2020年を生きる我々だが、戦時中という異常な時代で野球を続けた彼らの姿には、我々が生き抜くためのヒントも隠れていそうだ。

文=犬企画マンホール 写真=BBM
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