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プロ野球20世紀・不屈の物語

“真っ向勝負の理論派”伊良部秀輝、メジャーへ/プロ野球20世紀・不屈の物語【1996〜97年】

 

歴史は勝者のものだという。それはプロ野球も同様かもしれない。ただ我々は、そこに敗者がいて、その敗者たちの姿もまた、雄々しかったことを知っている。

清原への剛速球で飛躍



 千葉へ移転してからのロッテについては、この連載でも何度か紹介した。移転4年目の1995年に2位となり、千葉での初のAクラス。このとき防御率2.53で初の最優秀防御率に輝いたのが伊良部秀輝だ。広岡達朗GM、バレンタイン監督による“二頭体制”も機能したかに見えた。だが、オフにバレンタイン監督が退任、翌96年は7月までは善戦したが、そこから失速して5位。チームも荒れていた。

 前年はバレンタイン監督と衝突した広岡GMが、今度は伊良部と衝突。ヒジ痛の伊良部に「やる気の問題」と言い放ち、これに伊良部が爆発した。善と悪という安直な二元論で分けられる問題ではない。監督として“管理野球”でヤクルト西武をリーグ優勝、日本一に導いた広岡にとっては、かつての成功例もあり、チームのことを考えて伊良部に投じた起爆剤だったのかもしれない。ただ、どんな方法論も万能ではなく、どんな優秀な人も全能ではない。かつての栄光の起爆剤も、誤爆することだってある。伊良部はメジャー移籍を希望。これが続く97年にまたがる大騒動に発展した。

 伊良部は最終的には防御率2.40をマークして2年連続で最優秀防御率に。オフに広岡GMは退任したが、伊良部がチームに不可欠な戦力であることは明らかなだけに、ますます事態は混迷していく。ましてや、近年よりもはるかにメジャー挑戦のハードルが高かった時代。徐々に伊良部の形勢は不利になっていったが、伊良部は自らの思いを徹底的に貫いていく。

 沖縄に生まれた伊良部の父親はアメリカ人だったが、物心つく前に離婚して帰国。伊良部は兵庫へ引っ越し、本格的に野球を始める。中学から投手で、香川の尽誠学園高へ野球留学、ボールが思うようにいかず「アンダースローにでもしようかと思った」(伊良部)こともあったというが、2年生、そして3年生の夏に甲子園にも出場。すでに県大会では150キロのストレートを投げていた。

 ドラフト1位で88年にロッテ入団。まだ本拠地は川崎球場だった。1年目から勝ち星を挙げたものの、その後は安定した結果を残せず、やや伸び悩んでいたようにも見える。運命の分岐点となったのは6年目の93年だろう。西武の清原和博に投じた1球が158キロを計測し、当時のプロ野球記録を更新。続く157キロはファウル、さらに157キロを投じた伊良部だったが、これを清原は完璧にとらえ、打球は右中間スタンドへ。以降、2人の対決は“平成の名勝負”といわれ、伊良部は真っ向勝負の剛速球を投じ、それを清原も待った。

ライアンからの助言


 まさに三振か本塁打か。「速いだけの球が打たれるのは分かっていたけど、清原さんに乗せられて投げていました」と伊良部は笑うが、「清原さんがいたから5キロは球速が上がった」とも。日本ハム大沢啓二監督が「幕張の伊良部クラゲ」と言ったのも、この93年のことだ。翌94年は15勝で最多勝。その翌95年にはアリゾナのキャンプで、あこがれのノーラン・ライアン(レンジャーズほか)から「もっと野球をメカニックに考えるべき」とアドバイスを受けている。

 当時のロッテにはプロ入りは後輩だが年齢では先輩の小宮山悟という球界きっての理論派もいて、たびたび投球論を戦わせて、その投球理論を整備していく。時には投球フォームをミリ単位で調整。これは、真っ向勝負を繰り広げる豪快さの一方、繊細な男だったことの証左でもある。メジャー移籍の大騒動を経て、ロッテの球団代表補佐として伊良部との交渉の窓口となった石井良一は、「僕はアメリカに行って父親を探したい」という伊良部の言葉に、残留の説得は無理だと感じたという。ロッテはパドレスに伊良部との独占契約権を与えたが、伊良部は代理人の団野村と契約してヤンキースへの移籍を主張。三角トレードという形で、伊良部はヤンキースへの入団を果たした。

 その剛速球には殺気が漂っているようにも見えた。その殺気を自らのスピードで振り払い、さらに加速していったようにも思える。その剛速球は伊良部そのものであり、伊良部もまた、自らが投じた剛速球そのものだったような気もする。

文=犬企画マンホール 写真=BBM
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