一昨年、創刊60周年を迎えた『週刊ベースボール』。現在、(平日だけ)1日に1冊ずつバックナンバーを紹介する連載を進行中。いつまで続くかは担当者の健康と気力、さらには読者の皆さんの反応次第。できれば末永くお付き合いいただきたい。 張本勲は巨人へ?
江夏はこの年、15勝14敗
今回は『1971年8月23日号』。定価は100円。
同じ号からもう1回。
まず、
阪神・
村山実兼任監督と
江夏豊の不仲についてだ。
7月30日から甲子園での対
巨人3連戦。阪神はこの時点で最下位だったが、さすが伝統のカード。球場には3戦とも大観衆が集まった。
しかし30日の試合の前、担当記者が「おらんぞ。何かあったんか」と騒ぎだした。練習が始まっているのに江夏の姿がなかったのだ。
実は虫歯が悪化し、骨膜炎になったらしい。合宿所の部屋をのぞいた村山監督は「おばけみたいに顔が腫れていた」と驚いていた。
あの9連続奪三振の球宴の後、7月27日の大洋戦(川崎)で完封勝利を挙げていたが、その際も「歯が痛い」と訴えていた。
しかし、結果的には江夏不在のまま阪神は3連勝。上機嫌だった村山だが、記者たちに「江夏がおらんでも勝てましたね」と言われたとき、何とも言えぬ嫌な顔をした。
記者たちの底意地の悪さを感じたのだろう。
関西マスコミは、阪神の御家騒動が“大好物”だったからだ。
確かに当時の江夏、村山の関係はかなり微妙だったが、これは過去のバチバチにぶつかり合う御家騒動と違い、江夏の反抗期みたいなところが根本にあった。
前年の70年に兼任監督となったときから村山は「これからは江夏がエース」と言い、勝ちゲームの後では「エースの自覚を持って投げてくれた」といつも大絶賛だった。
ただ、江夏のほうは、たとえば打たれて交代の時期、村山自らマウンドに向かっても、村山が来る前にさっさとマウンドを降りてしまったり、以前も書いたようにオールスターの9連続三振の後も、なぜか村山と握手しなかったりと、微妙な態度を見せていた。
記者たちにも「監督が行け言うたら、毎日でも投げます」と言いながら、陰では「雨でも降らんことには休まれんからつらい」とこぼしたりした。
これは村山が憎いというより、良かれと思って、いろいろ干渉してくる村山に対し、「エースを任せてくれたんなら、信頼してください。あれやこれや言わんでも分かるから」ということだったのだろう。弟が兄、子が父をうるさがるような心境だったのではないかと思う。
さらに言えば、村山もエース時代は同じように、お山の大将。好きなようにやっていた。
東映では
張本勲と
田宮謙次郎監督の関係がきな臭くなってきた。チームが5位に低迷する中、田宮が張本の無気力に見える守備への批判をし出し、張本は張本で、口を開けたら「チームプレー」の田宮監督にあきれ、「それ以前の問題があるだろ」と話していた、
こちらは巨人移籍がウワサされていた。
では、またあした。
<次回に続く>
写真=BBM