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プロ野球20世紀・不屈の物語

ロッテから中日へ。絶頂期の落合博満が経験した不振とリーグ優勝/プロ野球20世紀・不屈の物語【1986〜88年】

 

歴史は勝者のものだという。それはプロ野球も同様かもしれない。ただ我々は、そこに敗者がいて、その敗者たちの姿もまた、雄々しかったことを知っている。

大きな分岐点となった86年オフ



 ロッテで三冠王に輝いて批判され、それを跳ね返す圧倒的な数字で2度目の三冠王となった落合博満については紹介した。打者を評価する基準は長打力から安定感、器用さや足の速さ、試合を休まない強靭さから今風にいえば“健康寿命”の長さ、さらには人気や年俸まで多様だが、この当時、誰が最強の打者かと問われれば、この男の名を挙げる人は多かっただろう。2年連続の三冠王を明言して臨んだ1986年は、まさに最盛期だった。

 前年の1985年は全試合に出場して52本塁打、146打点、打率.367で三冠王。その勢いは衰えることなく、阪急との開幕戦で山田久志から本塁打を放つ。打ったのはシンカーだ。山田のウイニングショットで、それまでの落合は山田のシンカーに苦しめられていた。この“山田シンカー”は一般的なシンカーよりも大きく変化し、よく沈む独特のシンカーで、手をかぶせるようにして投げる一般的なシンカーを投げられなかった山田が、独自の工夫を重ねて編み出した“魔球”。それまでの落合は、すくい上げるように打とうとして苦労していたのだが、上から“つぶす”ような意識で攻略に成功する。以降、山田も意地になってシンカーを投じたが、これをことごとく打ち返した。

 そのまま落合は好調を維持して、10月14日の時点で2年連続3度目の三冠王は決定的となる。その後は稲尾和久監督に頼まれて、若手にチャンスを与えるべく、ほぼ欠場。プロ野球新記録を狙いたいなら、とも言われたが、「王(王貞治巨人)さんの(シーズン55本塁打の)記録なら来年でも挑戦できますから」と答えた。最終的に50本塁打、116打点、打率.360。だが、そのオフに大きな分岐点を迎えることになる。

 日米野球に出場した落合は、やはり自己最多の21勝と勢いに乗っていたジャック・モリス(タイガース)の投球を手応え十分に打ち返したが、バックスクリーンに届かず中飛に。これで微妙な歯車の狂いが生じる。落合ほどの打者でなければ分からないほどの、わずかな感覚の違いだっただろう。ほとんどの打者は気づかずに、やり過ごしてしまうようなものだったかもしれない。ただ、落合にとっては決定的な違いであり、これが以降の落合を、じわじわと苦しみ続ける。さらには、慕っていた稲尾監督が解任。「稲尾さんのいないロッテにいる必要はないでしょう」と移籍を志願する。もともと成績に比例して年俸が高騰していた落合の移籍は水面下で騒がれていた話題だったが、三冠王のトレード志願という異例の事態に、やはり球界は騒然。真っ先に名乗りを上げたのは巨人だった。

無冠で経験したリーグ優勝


 巨人は落合が2度目の三冠王となった85年オフにも獲得に乗り出しており、準備は万端。巨人への移籍は時間の問題とも言われた。その流れを止めたのが、この86年オフに就任したばかりの中日の星野仙一監督。そして12月23日に牛島和彦上川誠二平沼定晴桑田茂の4人との交換で中日への移籍が発表される。星野監督と並んで会見に臨んだ落合は、「男が男に惚れただけ。稲尾監督でできなかった胴上げを星野監督でしたい」と語った。プロ野球で初めて1億円プレーヤーとなり、打者として頂点を極めた落合。だが、まだ優勝の経験はなかった。

 移籍1年目の注目は、落合と同じく85年、86年と2年連続でセ・リーグの三冠王となっていた阪神のバースとのタイトル争い。だが、ともに無冠に終わる。落合は打率.331で首位打者には近づいたもののリーグ3位、28本塁打に85打点と不本意な結果だった。雪辱を期した移籍2年目の88年は、開幕から深刻な不振に陥る。中日も4月を最下位で終えるなど低迷。新天地でも不動の四番打者だった落合だったが、6月1日、ついに四番から外された。

 それでも、後半戦に入って復調。中日も7月には首位に立ち、落合も8月だけで3度のサヨナラ打を放つなど存在感を見せる。10月7日、中日は6年ぶりリーグ優勝。落合は前半戦の不振が響いて打率3割に届かず無冠に終わったが、初めてリーグ優勝を経験する。プロ10年目。すでに34歳になっていた。

文=犬企画マンホール 写真=BBM
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