一昨年、創刊60周年を迎えた『週刊ベースボール』。現在、(平日だけ)1日に1冊ずつバックナンバーを紹介する連載を進行中。いつまで続くかは担当者の健康と気力、さらには読者の皆さんの反応次第。できれば末永くお付き合いいただきたい。 球界の功労者
今回は『1971年9月6日号』。定価は90円。
最初にお詫びです。以前もあったのですが、アップの日にちを間違え、前日にしてしまいました。それを削除し、新たにアップし直したものが以下です。混乱した方がいたらすいません。
「チミね」で有名だった東映の大川博オーナーが8月17日、肝硬変で死去した。
1962年の優勝・日本一では背番号100のユニフォームを着て、はしゃいだ名物オーナーだ。「金は出すが、口は出さない」と言って有名になったが、のちは逆に「しぶちん商法」とも言われた。
ただ、当時のパ・リーグ球団はいわゆる「赤字製造マシン」だった。鉄道の経理畑出身の大川としては当然のことともいえる。
46年、終戦後に球界に加わった「セネタース」が東映の、そして
日本ハムのルーツだが、当初は銀座の金貸しがスポンサーだった。だが、何があったか知らないが、1年で手離してしまったことで、次に引き受けたのが、東急だった。
しかし、とても採算が合わずと、早くも48年に球団を手放すことを決めたが、これに反対したのが東急の経理部長だった大川だったという。
それで当時の東急社長・五島慶太から「だったらやってみなさい」と球団経営を託された。
当初、大川は経営のみで、球団は猿丸元代表が担当していたが、スーパースター・
大下弘が51年末、猿丸代表と衝突。これはヒロポン中毒だった母親の入院費のため球団に前借を申し込み、断られたのがきっかけだった。結果的には移籍したのだが、この際、両者の間に入った大川は、これで大下、さらにはプロ野球選手の境遇に同情したらしい。
その後、東急が立ち上げた東横映画が名前を変えた映画会社東映の社長なり、コストカットで経営を上向きにさせ(制作面ではマキノ光雄の功績が大きかった)、54年には球団名が東映フライヤーズとなった。
ただ、実際には球団の登録は以後も「東急ベースボールクラブ」のまま。東急が球団経営を東映に委託した形だった。改名には、大川というより、五島の思惑があったのだと思う。
いずれにせよ、大川が死んでも東急が球団経営に乗り出す気はなく、身売りになるのではと言われていた。
訃報を東映ナインが聞いたのは、同日阪急戦のため後楽園に行ってからだった。
大杉勝男は「具合が悪いのは知っていましたが、そんなにひどいとは知りませんでした」と絶句。大杉の父も肝硬変で亡くなっていた。
コワモテの
張本勲の目も真っ赤だった。
「フライヤーズに入るとき、国籍問題で僕もチームも困り果てたことがある。社長は大川家の養子になれ、そうすれば、すべてのごたごたも解決するだろうと言ってくれた。僕には本当のお父さんのように思えてならない」
試合は2人のホームランもあって8対2で快勝した。
では、またあした。
<次回に続く>
写真=BBM