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プロ野球20世紀・不屈の物語

阪急からオリックスにかけて星野伸之が投じた130キロの“速球”/プロ野球20世紀・不屈の物語【1984〜99年】

 

歴史は勝者のものだという。それはプロ野球も同様かもしれない。ただ我々は、そこに敗者がいて、その敗者たちの姿もまた、雄々しかったことを知っている。

「フォームで投げる」意識



 古くから速球は魅力的だ。速球による真っ向勝負は、シンプルにファンの心をつかむ。巨人の結成に参加して、その名を沢村賞に残す伝説的なエースの沢村栄治も、最大の武器は快速球。その速球を見るために観客は球場へ詰めかけた。スピードガンが登場してからは球速がバックスクリーンに表示されるようになり、速球の楽しみも増える。たとえボールであっても、すさまじい球速が表示されれば歓声が上がった。わずか1球でファンを魅了することができるのが速球だ。

 その点、技巧派の投手は分が悪い。一見して分かりづらい変化球も多く、緩急を駆使しても、打者を打ち取らなければ、なかなか歓声は上がらない。目を見張るような球速のない変化球でボールなら、ため息すら聞こえてくる。バッテリーの作戦によるボールであっても、その1球だけではファンに伝わらないのだ。

 20世紀から21世紀にまたがって、異色の左腕がいた。決して技巧派ではない。だが、速球派でもない。だが、それでも真っ向勝負を繰り広げて、打者のバットは速球に振り遅れるかのように空を切った。シーズン最多奪三振は1度もなかったが、21世紀に入ってプロ野球17人目となる通算2000奪三振に到達。ストレートの最速は130キロ台だったが、阪急からオリックスにかけて11年連続を含む12度の2ケタ勝利を達成した星野伸之だ。

 北海道の旭川工高では「三振も取れたし、そんなに自分の球が遅いとは思っていなかった」というが、ドラフト5位で1984年に阪急へ入団すると、ブルペンでベテラン投手と同じタイミングで投げたとき、「キャッチャーミットに届くタイミングが違う」と、初めて自分の球が遅いことに気づかされたという。球が速いことは、ファンにとって魅力的なだけでなく、大きな武器でもある。星野は悩んだ。球速アップのためにグラブを持つ右手の使い方を工夫したりもしたが、これで体の軸がブレてしまい、かえってうまく投げられなくなってしまう。

 そんな星野を救ったのが、二軍の足立光宏コーチだった。足立コーチは現役時代、投球術とシンカーで阪急の黄金時代に貢献したサブマリンだ。「お前は力を入れたらダメなピッチャー。なるべく力みをなくして、フォームで投げてみろ」。そこから「ピッチングでもランニングでも、力を抜くことを意識しました」(星野)という。投手としての“意識改革”が始まった。

「常に次の1球を意識して」


 もともと、制球力には自信があった。1年目は一軍での登板はなかったが、フリー打撃で投げることが多く、味方の打者に気持ちよく打ってもらうことを心がけ、これが逆に敵の打者が狙っている球を探り、裏を読む駆け引きに結びつく。

 スローカーブは90キロから100キロほどで、すっぽ抜けたカーブを捕手の中嶋聡が素手で捕ってしまったこともある。だが、まずは、これを打者に意識させた。さらにはストレートも球速に差をつけ、4年目からは110キロ台のフォークも加わり、これらを同じ腕の振りで投げ込む。投げる瞬間の力加減だけで球速を変え、その日の最速より少し遅いストレートで打者を追い込み、最後は最速のストレートで真っ向勝負。ゆったりしたフォームから素早く投げることで球にもキレが生まれるため、実際には130キロほどのストレートでも、打者には速く感じられ、タイミングが取りづらくなるのだ。もちろん、これらのすべてにおいて制球力は大前提。かつて球速が遅いことに悩んだ左腕は、のちに「コントロールのない150キロはいらない」と語っている。

 チームの全体ミーティングで、140キロを超える速球を持つ投手たちが投手コーチから「インコースを攻めろ」などの指示を受ける一方で、星野だけは「自分で工夫しろ」と言われていたという。そして、三振の山を築いていった。「僕の球では狙って取れない。常に次の1球を意識して勝負して、それが結果的に三振につながる」(星野)。1球だけで沸かせることはなかったが、なにかの魔法にかけられたかのように、その投球のすべてにファンは魅了されたのだ。

文=犬企画マンホール 写真=BBM
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