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プロ野球20世紀・不屈の物語

田淵は頭部に死球、佐野はフェンスに激突……70年代の阪神を襲った惨劇/プロ野球20世紀・不屈の物語【1970〜77年】

 

歴史は勝者のものだという。それはプロ野球も同様かもしれない。ただ我々は、そこに敗者がいて、その敗者たちの姿もまた、雄々しかったことを知っている。

ヘルメットに耳あてがない時代



 野球は、やはり危険と隣り合わせのスポーツだ。これがプロ野球となれば、野球のレベルが上がるにつれて、どうしても危険性は高くなる。これが試合になって、プロの技術を持った選手たちが全力を出し、投球も打球もスピードが速くなると、それがファンを沸かせる一方で、わずかな歯車の狂いから、選手生命はおろか、場合によっては生死にかかわる大事故を呼びかねない。こうした惨劇が続いたのが1970年代の阪神だった。

 当時のセ・リーグでは、65年からライバルの巨人がV9を謳歌。阪神は64年のリーグ優勝を最後に、その後塵を拝し続けていた。それでも、60年代の後半は常にAクラスは維持。そして70年、“黒い霧事件”で暗く沈んだシーズンだったが、兼任監督の村山実が率いる阪神は巨人と激しく優勝を争って、プロ野球の醍醐味をファンに感じさせた。村山は通算200勝に到達し、防御率0.98で最優秀防御率に輝き、エース左腕の江夏豊は21勝。打線も活発で、2年目の田淵幸一が本塁打を量産、8月25日の時点で、巨人の王貞治には離されていたものの、リーグ2位の21本塁打を放っていた。

 だが、翌26日の広島戦(甲子園)の3回裏、そんな田淵を悲劇が襲う。広島のマウンドにはエースの外木場義郎。重いストレートで鳴らした剛腕だ。そんな外木場の速球は、外角と読んで思い切り踏み込んだ田淵の頭部へ。ヘルメットに耳あてなどない時代。田淵は、その場に昏倒した。「耳からも目からも口からも血が出ていた。ああ、死んだ、と思った」と、目撃した江夏は証言している。出血は脳からではなく鼓膜が損傷したことによるものだったが、なかなか田淵の意識は戻らず、回復しても混濁した状態が続いた。意識がはっきりしてきたのは9月4日だったという。その後も阪神は巨人に食らいつき、129試合目に巨人が優勝を決めたが、田淵は残りのシーズンを棒に振った。

 セ・リーグでは巨人のV9が73年を最後に途切れ、一強の巨人に挑むライバルの阪神という構図から、群雄割拠といった様相へと変わっていく。同期で入団した掛布雅之佐野仙好が三塁のポジションを争うなど、阪神の世代交代も進んでいた。三塁には習志野高からドラフト6位で入団した掛布が定着。中大からドラフト1位の佐野は77年に外野へ回るが、それがレギュラー定着につながった。そんな77年、阪神に悪夢がよみがえる。

コンクリートむきだしの外野フェンス


コンクリートむきだしの外野フェンスに激突した佐野


 4月29日の大洋戦(川崎)9回裏一死一塁から、清水透の打球は左翼の後方への大きな飛球。内野手の習性を残した佐野は果敢に突っ込んでいき、これを好捕したものの、そのまま外野フェンスに頭から激突した。当時の外野フェンスはコンクリートむきだし。佐野は意識を失って、両手を痙攣させたままグラウンドへ入ってきた救急車で運ばれていった。だが、タッチアップで一走が本塁に生還。「ボールデッドにすべき」という吉田義男監督の抗議など34分間の中断を経て、提訴を条件に試合は再開された。

 佐野は頭蓋骨線状骨折で入院。この事故を契機に、プレーヤーの人命にかかわるような事態など、プレーを中断すべき事態であると審判員が判断したときには、プレーの進行中であっても、審判員はタイムが宣告できる」と野球規則に追加され、各チームの本拠地球場で外野フェンスにラバーを張ることが義務となった。

 ともに命にかかわる大事故だったが、救いは田淵も佐野も、その後も活躍を続けたことだろう。田淵は翌71年に復活。腎盂炎などもあって2年間は低迷したものの、74年に自己最多の45本塁打、75年には43本塁打を放って、王の連続本塁打王を阻んで初の本塁打王に。佐野は事故から約2カ月後、7月3日のヤクルト戦ダブルヘッダー第2試合(甲子園)で、一軍へ復帰した初打席から、いきなり鮮やかな本塁打を放った。そのままレギュラーにも復帰。日本一イヤーの85年に六番打者として勝負強い打撃でチームに貢献し、89年までプレーを続けた。

文=犬企画マンホール 写真=BBM
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