週刊ベースボールONLINE

平成助っ人賛歌

“イチロー旋風”の裏で人気者となった体重108キロの巨漢・トラックスラー/平成助っ人賛歌【プロ野球死亡遊戯】

 

まるでドカベン香川の再来


ダイエー・トラックスラー


 1994年(平成6年)3月11日、あの歴史的名作ゲームの記念すべき第1作目が発売された。

 コナミのスーパーファミコン用ソフト『実況パワフルプロ野球’94』である。投球の高低、リアルな球種再現、12球団の本拠地球場の実名化、実在のアナウンサー(朝日放送の安部憲幸氏)による試合実況とこれまでの野球ゲームの概念を変える斬新な仕掛けの数々に野球ファンは熱狂。95年3月3日発売の『スーパーファミスタ4』でも、パワプロに追随するように唐突に高低差を取り入れたことからも分かるように、たった一作でファミコン時代の雄『ファミスタ』シリーズからキング・オブ・野球ゲームの座を奪い取った。

 初期のパワプロのキャラは今よりも丸っこい体型で、コロコロしたフォルムはまるであの助っ人選手にそっくりだと話題になった。そう、パワプロ1作目と同じ94年にダイエーホークスへ入団したブライアン・トラックスラーである。メジャー通算9試合でわずか1安打だったが、90年にはマイナー・リーグで打率.357を記録。93年はドジャース傘下の3Aアルバカーキに所属し、127試合で打率.333、18本塁打、83打点。492打席でわずか36三振とミートが上手い左打ちの好打者と前評判は高く、年俸5000万円とお手頃で、まだ26歳と若かった。しかし、事件が起きる。ダイエー球団発行のメディアガイドでは身長175センチ、体重91キロと記載されていたが、本人が実際に来日すると、なんとユニフォームの腹回りははち切れそうなほどピチピチ。明らかに15キロはオーバーしていたのだ。
 
 まるでドカベン香川の再来。大相撲の人気小兵力士、舞の海より余裕で重い。だが、その身長175センチ、体重108キロ(自己申告は104キロ)の豆タンクのような体型にメディアは注目する。当時の集客に苦しむパ・リーグでは珍しく、雑誌や新聞の取材が殺到したのである。しかも、10日前に足首をひねり出場すら危ぶまれたオリックス相手の開幕戦では、満塁弾を含む5打数4安打7打点の大暴れ。この試合は、94年に登録名を鈴木一朗からカタカナ名に変えた「イチロー」としての公式戦デビューという平成球史に残る一戦だったが、その主役は背番号51ではなく、“小型バース”と称された背番号39のトラックスラーである。

 開幕戦の爆発から10試合連続ヒットと打撃は絶好調。福岡ドームまでは自転車通勤で通い、丸い顔にヒゲを蓄え、アゴ肉とお腹を揺らしながら一塁へ走るだけでスタンドが湧く人気者の誕生だ。テキサスからやってきた男の特技は投げ縄。ヒジと手首が異様に柔らかく、それがシュアな打撃や一塁守備にも生きた。6月中旬に球団は複数選手のシリーズ化を前提とした高さ15センチの博多人形を発売したが、その商品化第1号選手は、この年からチームにやってきた秋山幸二やFA移籍の松永浩美ではなく、体型が博多人形そのまんまのトラックスラーだった。

「体重を落とすと、パワーも落ちる」


シーズン前半は好調な打撃を披露した


 根本陸夫監督からは“コロコロちゃん”と愛称をつけられ、トラックスラー本人も『週刊ベースボール』94年5月23日号のマーティー・キーナートの直撃インタビューで「開幕前、ボクはホームランを一本も打っていない。今年これだけやれているのには、根本さんの我慢と理解があったからこそだね」と67歳のボスへの感謝を語っている。さらに自身の体型については饒舌にこう説明する。

「小さいころから、こんな体つきだから野球をやるうえで他人からいろいろなことを言われてきた。でも、全然気にならないよ。(減量は)ある年だけ、かなり体重を落としたことがあったんだけど、あんまり打てなかった。いつものボクじゃなくなっていたんだ。体重を落としてしまうと、おそらくパワーも一緒に落ちてしまうんじゃなないかな」

 確かにプロレスラーの橋本真也も「体重が120キロ台に落ちるとキック力が弱まる」と言っていたな……というのは置いといて、驚くのはNPBからメジャー復帰後に本塁打王に輝いたセシル・フィルダーのキャリアと比較されるほど、当時のトラックスラーの評価は高く、本人は将来的なプランについて聞かれ、「日本で3、4年いい成績を残して、それから(大リーグに)戻れるなら、いいね」とご機嫌に答えている。なお“コロコロちゃん”のニックネームについてはいまいち意味を理解していない様子だったが、インタビュアーからボーリングのボールがレーンを転がるときの音と説明され、「なあんだ、そういう意味だったのか(笑)」なんつって笑い飛ばす陽気なテキサスブロンコは、カウボーイスタイルのアニメが福岡ドームの巨大スクリーンに映し出される球団の顔的存在に。

 前半戦は首位争いのホークス打線を牽引する活躍で、オールスターにも監督推薦で選出された。イチローが初出場の20歳9カ月で全パの一番を務め、松井秀喜が20歳1カ月で全セ四番に指名され、新時代の幕開けと語り継がれる94年夢の球宴第1戦で、全パの四番・清原和博と六番・秋山幸二に挟まれた「五番・DH」のトラックスラーもしっかり2安打を放っている。まさに順調すぎる日本でのキャリア。愛妻や娘も来日し、福岡生活をエンジョイする。しかし、だ。トラックスラーは1日で1ケースも飲んだこともある大のビール好き。日本のビールの味もいたく気に入り、夏場の暑さに体重が減るどころかビールが進みまくり、さらに太ってしまう。

「少年野球教室の先生」のオファー


同僚のライマー(左)、ヤクルト・ハウエルと談笑


 後半戦は体のキレを失い、一発狙いで本来の打撃スタイルを崩したこともあり、最終的に129試合、打率.263、15本塁打、62打点、OPS.718と平凡な成績でシーズンを終える。翌年の去就は微妙な状況だったが、チームは悲願の王貞治監督の招聘に成功。王ダイエーの船出にふさわしい、メジャー220発男のケビン・ミッチェルを獲得してみせた。すると、当時の球界最高年俸4億円をつぎこんだ超大物外国人の加入にともない、球団は役割がかぶる人気者トラックスラーに「少年野球教室の先生」という謎のオファーを出す。95年2月24日付サンケイスポーツはこの客寄せパンダ的な扱いを「トラちゃん“パンダ”になって」と報じ、「確かに体型はパンダみたいに愛きょうがあるが、プロ選手に野球教室専任とはチト失礼」なんてフォローしてんのかディスってんのかよく分からない記事を確認できる。

 結局、まだ27歳の若さということもあり本人は現役続行を希望。愛すべきコロコロちゃんはわずか1シーズンで日本球界を去るが、漫画家の河合じゅんじは94年夏に出た『月刊マンガアクションランド増刊』において、「内容はおまかせで8ページの野球モノ」という依頼を受けると、「今一番インパクトがあるのはこの選手しかいない!」と一本のマンガを描き下ろす。そのタイトルは、『ぽてぽてだねトラックスラー!』だ。

 セ・リーグでは巨人中日の最終戦の同率優勝決定戦“10.8”が注目を集めた1994年、パ・リーグを盛り上げたのは、210安打を放ったイチローと体重108キロのトラックスラーだったのである。

文=プロ野球死亡遊戯(中溝康隆) 写真=BBM
週刊ベースボール編集部

週刊ベースボール編集部

週刊ベースボール編集部が今注目の選手、出来事をお届け

関連情報

みんなのコメント

  • 新着順
  • いいね順

新着 野球コラム

アクセス数ランキング

注目数ランキング