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プロ野球20世紀・不屈の物語

まさに天国と地獄。異色の左腕の足かけ24年/プロ野球20世紀・不屈の物語【1968〜92年】

 

歴史は勝者のものだという。それはプロ野球も同様かもしれない。ただ我々は、そこに敗者がいて、その敗者たちの姿もまた、雄々しかったことを知っている。

「長嶋さんのためが第一」



 2年連続2度の最優秀防御率に輝き、その名を球史に残す左腕。ただ、その現役生活の落差は激しい。チームを変え、さらには戦いの舞台も大きく変えて、浮き沈みを繰り返しながら、新浦寿夫(のち壽丈、壽夫)は24年もの長きにわたって投げ続けた。プロ入りの経緯からして異色だ。韓国籍だったため、当時の規定ではドラフトにかからず、静岡商高を中退して1968年9月に巨人へ。65年に始まったV9の真っただ中だ。だが、いきなり故障。「ケガというより、高校野球の疲れが出た。成長期に酷使して、左肩の骨に若干のヒビがあった。特に痛みはなかったんですけどね」(新浦)。

 20歳を迎える71年に一軍デビュー。初完封を含む4勝を挙げたが、翌72年には失速、それでも続く73年からは再び勝ち星を増やしていく。連覇が途切れた74年には7勝も、長嶋茂雄監督が就任した75年に巨人は一転、最下位に転落。長嶋監督は、どんなに打たれても新浦を使い続け、新浦は批判の矢面に立たされた。37試合に登板、規定投球回には届いていないが、防御率3.33。それほど悪い数字ではないが、「2勝11敗ですからね。何を言われても仕方ないですよ。それで翌年、願掛けで1月1日からタバコをやめて、長嶋さんに『禁煙しました』って言ったら怒られて。『全部、俺の責任なんだから、ケツの穴からヤニが出るまで吸え』って(笑)」(新浦)。

 21世紀の感覚では考えられないことだが、プロ野球選手も当たり前のようにタバコを吸っていた時代だ。その76年から4年連続2ケタ勝利、77年に防御率2.32で初の最優秀防御率となり、リーグ連覇に貢献する。翌78年は先発、救援を問わずリーグ最多の68試合に投げまくった。「長嶋監督が使ってくれたことに対して、ありがたいという思いがあった。つぶれてもいいや、という感覚でいました。長嶋さんのために投げるというのが第一でした」(新浦)。

 巨人は優勝に届かなかったが、新浦は防御率2.81で2年連続の戴冠、そして自己最多の15勝。15セーブでセーブ王にもなった。その翌79年にも15勝。「当時はエースですからね。でも、あれだけ投げてましたから、そのうち来るな、と思っていました。キャンプからヒジが痛くて、治療しながら遠征にも行ったけど、ヒジも肩も完全にやってしまった」(新浦)。

「最後は生死の境をさまよって……」


大洋で日本球界に復帰した87年にはカムバック賞を受賞


 そして83年オフ。「長嶋さんに『韓国に行って巨人軍の野球を教えてやれ、って言われて」(新浦)韓国へ。韓国プロ野球が始まったばかりの時代。新浦は三星でプレーすることになる。どん底だったはずだが、さらなる苦境、まさに地獄が待っていた。「向こうの週刊誌にマリファナか何かをやっているって書かれました。そのくらい一気に痩せた。最後は試合開始の前に倒れて、生死の境をさまよって。日本の病院で糖尿病だと分かった。でも、食事制限とインシュリンを適切に投与していれば問題ないですから」(新浦)。

 結局、韓国では3年間プレーして、87年に大洋でプロ野球に復帰して11勝。巨人では荒れ気味の速球が持ち味だったが、技巧派の貴重な左腕として低迷するチームを支えた。カムバック賞を贈られたが、「韓国で(85年に)25勝していて、なにがカムバック賞だとも思いましたが、もらえるもんだから黙っておこうって(笑)」(新浦)。以降2年連続2ケタ勝利。90年代に入ると救援のマウンドが増え、「先発のチャンスが欲しくて(92年に)ダイエーに行ったんですが、上とバタバタしまして、(シーズンの)途中からヤクルトへ。結局、それで終わりになりました」(新浦)。

 プロ野球で21年、韓国と合わせて24年の現役生活。17歳でプロになり、ラストイヤーの92年は現役で最年長の投手だった。輝ける時代もあったが、それ以上に苦難が深く、時間も長かった。ただ、暗く沈んでいた印象は一切ない。そんなときも前を向き、ためらうことなく突き進み続けた。「悩んだときに、(前に)行かなければ、行き止まりなのか、違う道があるのか、それも分からない。あとで後悔するだけです」(新浦)。

文=犬企画マンホール 写真=BBM
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