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プロ野球20世紀・不屈の物語

中日の新人王、3年目オフのトレード拒否/プロ野球20世紀・不屈の物語【1976〜77年】

 

歴史は勝者のものだという。それはプロ野球も同様かもしれない。ただ我々は、そこに敗者がいて、その敗者たちの姿もまた、雄々しかったことを知っている。

「どんどん愛着が出ていた」



 近年こそトレードに対するネガティブなイメージは希薄になってきたが、20世紀の昔には少なからず“お払い箱”のような印象があったのは事実。特に戦後、世の中を見渡しても終身雇用制は当たり前、武家社会でもあるまいに、サラリーマンが会社に対して“滅私奉公”する姿が称賛されていたような時代は、サラリーマンの半分くらいの年数しか現役でプレーできないプロ野球も、そんな目で見られていた部分もあったかもしれない。

 ただ、終身雇用で同じ会社ひと筋というサラリーマンは、会社に育てられ、会社に愛着を持ち、そして会社の発展に貢献していったことも確かだろう。当時の企業に比べれば、はるかにドライなプロ野球の世界であっても、こうした感情がプロ野球選手に芽生えないわけでもない。巨人定岡正二がトレードを拒否して現役を引退したことは、定岡の“身代わり”で近鉄へ移籍した淡口憲治を紹介した際に少し触れたが、その背景にも、こうした社会の雰囲気やチームへの愛着が少なからずあったことだろう。定岡は引退してしまったが、トレードを敢然と拒否、結果的にはチームに残留し、チームひと筋を貫き通したのが、中日の藤波行雄だった。

 中大で“東都の安打製造機”の異名を取った藤波は、ドラフト1位で中日へ。あこがれだった巨人の長嶋茂雄と同じ背番号3を与えられ、1年目から巨人の連覇を阻むリーグ優勝に貢献して新人王に。長嶋の引退試合にも一番打者として出場した。筋肉が硬いことで疲労からの回復が遅く、好調を維持することは難しかったものの、三振が少なく、左打席からの巧みなセンター返しで鳴らした巧打者で、3年目の1976年に初めて出場100試合を突破。だが、そのオフ、球団事務所に呼び出され、クラウンへのトレードを告げられる。

 中日が狙っていたのは攻守に職人肌を発揮している二塁手の基満男。中日には名二塁手の高木守道がいたが、すでに35歳となっており、その後継者として獲得しようとしていたのだ。交換相手として白羽の矢が立ったのが投手の竹田和史と、藤波。もちろん藤波は悩んだ挙句、「どうしてもトレードなら引退させてください」と拒否する。「たいした成績を出していたわけじゃなかったけど、これからレギュラーを狙うぞ、というだけにショックでした。好きな球団に入って、どんどん愛着が出ていた。(移籍すれば)給料は上がるぞ、と言われたけれど、そういう問題じゃない」(藤波)

「最後はドラゴンズと決めていました」


 出る杭は打たれる。藤波には批判が集まった。寄ってくるチームメートもいなかったが、「かける言葉もなくて、放っておいてくれたんだと思います(笑)」(藤波)。そんな藤波を援護射撃したのが中日ファン、中でも女性のファンだった。トレード拒否も前例がなかったが、ドラフト1位の新人王を3年で手放すというのも異例。連日、球団には抗議の電話が殺到し、名古屋市内ではトレード撤回の署名活動も始まって、最終的には1万人を超える署名が集まる。これに球団が折れた。基とのトレードは白紙、クラウンとのトレードは竹田と同じ投手の松林茂との1対1に落ち着いた。

 藤波も無傷ではいられなかった。背番号3は剥奪され、40に変更。減俸に加えて春季キャンプの自費参加、開幕6試合の出場停止などの処分を受けることになる。それでも迎えた76年には2年連続で出場100試合を突破。規定打席には届かなかったものの、打率.318と安定感を発揮した。「あれから1打席1打席、ダメならクビだと思って必死に頑張った」(藤波)。だが、逆風は続く。同じ左打者で外野手、やはりドラフト1位で76年に入団して新人王となっていた田尾安志の成長もあって、80年代に入ると代打、準レギュラーが定位置となっていき、最後まで規定打席に到達するシーズンはなかったが、83年には打率.325を残すなど、独特な存在感でチームに貢献し続けた。

 87年に6試合の出場にとどまり、現役を引退。他チームで現役を続行する選択肢もあったが、「あの騒動で、最後はドラゴンズと決めていました」(藤波)。

文=犬企画マンホール 写真=BBM
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