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プロ野球20世紀・不屈の物語

15本塁打、55打点、打率.244の自己ワースト……長嶋茂雄のラストイヤー/プロ野球20世紀・不屈の物語【1974年】

 

歴史は勝者のものだという。それはプロ野球も同様かもしれない。ただ我々は、そこに敗者がいて、その敗者たちの姿もまた、雄々しかったことを知っている。

「野球人生は短すぎる」



 不屈の物語には光よりも影が似合う。影が濃いところへ光が差し込むことで、陰影が際立ち、その美しさが我々を魅了する。逆に、光があるところには必ず影があるとはいえ、満遍なく光に照らされているような明るい世界には不屈の物語は似合わない。その意味で、長いプロ野球の歴史にあって、それを20世紀に絞ってみても、不屈の物語と最も遠い存在を1人だけ挙げるとすれば、やはり巨人の長嶋茂雄になるのだろう。

 人気は絶大。もちろん、そんな国民的な人気を長嶋が獲得したのにはさまざまな要素があり、もし立大のスターだった長嶋が熱心に誘われた南海(現在のソフトバンク)へ入団していただけでも、歴史は違っていたはずだ。球界のド真ん中に君臨する巨人の、そのド真ん中にいた長嶋は、その属性や成績、オーバーアクションや大舞台で大活躍するなどのスター性に加えて、そのキャラクターで人気を集めていった。真剣勝負に生活も懸かったプロ野球の世界で、常に野球を楽しんでいたような長嶋に、多くの少年たちが魅了され、その背中を追いかけるようにプロの道に進んだ選手も少なくない。

 1年目から三冠王、トリプルスリーに迫り、ベースの踏み忘れで29本塁打に終わったものの、本塁打王、打点王の打撃2冠、新人王に。その後も打撃タイトルの常連となり、王貞治との“ON砲”はV9巨人の象徴だった。まだ自宅に風呂があることが珍しかった時代。町中の銭湯では1と3、つまり王と長嶋の背番号から埋まっていったというのは有名な話だ。長嶋という“太陽”の光が強く、多くの選手が影を深め、不屈の物語を紡いでいった。ただ、どんなに優れた選手でも、どんなに明るい男にも、遅かれ早かれ老いは忍び寄ってくる。もちろん、長嶋も例外ではなかった。

 71年が最後の全試合出場、打率.320で獲得した首位打者が最後のタイトルに。翌72年からコーチ兼任。「打撃は奥が深いよ。その割に野球人生は短すぎる」とも語っていた。その翌73年がV9ラストイヤーとなるが、南海との日本シリーズで長嶋は骨折のため三塁コーチとして登場。よって、少なくともバットでは、巨人V9の総決算となる日本一には貢献できていない。このとき、そう遠くないうちに“その日”がやってくることを予感したファンも少なくなかっただろう。

「俺の打球も正直になった」


 迎えた74年は開幕戦で5年連続となる本塁打を放つも、その後は低迷。「ボテボテのゴロでも人がいないところへ飛んでいく」と言われていた長嶋の打球も、ジャストミートしても野手の正面へ飛んでいくようになり、長嶋も「俺の打球も素直になったな」と苦笑した。6月にはプロ17年目にして初めて一番打者として先発出場。長嶋に活路を与えようとした川上哲治監督の采配だったが、同じ頃、川上監督は球団に「長嶋のために、誰もが納得できる“セレモニー”を考えてほしい」と頼んでいる。球宴を終え、長嶋は川上監督だけに引退の決意を告げた。

 前人未到、そして空前絶後になるであろうV10が引退の花道となる可能性も残されていた。9月3日の時点で巨人は中日と同率で首位。だが、そこから中日は巨人を引き離し、10月12日の大洋とのダブルヘッダーで連勝して優勝を決める。長嶋の引退が発表されたのは、その夜のことだった。V10を阻む歴史的な快挙を成し遂げた中日だったが、その翌日の新聞では長嶋の引退のほうに注目が集まってしまったことは紹介している。

 そして14日。15本塁打、55打点、打率.244の自己ワーストで、ラストイヤーで初めて苦しんでいるように見えた長嶋だったが、その印象をファンの記憶から吹き飛ばすほどの引退セレモニーが催された。

文=犬企画マンホール 写真=BBM
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